ルール占領とインフレーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:11 UTC 版)
「第一次世界大戦の賠償」の記事における「ルール占領とインフレーション」の解説
「ルール占領」および「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照 ドイツ政府の賠償資金調達の結果、マルク為替は下落し始めた。このため1922年5月期限の支払いが困難となり、ドイツは支払い延期を求めたが、フランスはほとんど応じず、マルクは一ポンド=5575マルクまで下落した。1922年1月のパリ会議で支払い猶予問題について話し合われ、一時的に支払い猶予が認められた。しかしフランスのアレクサンドル・ミルラン大統領やレイモン・ポアンカレ元首相は対独融和に強硬に反対し、合意に賛成したアリスティード・ブリアン首相は辞職した。その後もマルク暴落は続き、ドイツ政府は7月12日に6ヶ月の賠償支払い停止を求め、さらに1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言した。イギリスは賠償金支払い猶予に応じるなど譲歩の構えを見せたが、フランス首相となったポアンカレや対米債務に苦しむ諸連合国は反対し、ポアンカレは抵当としてルール地方の鉱山管理権を要求した。その後、ドイツの賠償支払いは遅れ、石炭引き渡し額が200万トン足りないなど、現物支払いを履行しなかった。このため12月26日、賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した。1923年1月4日、ポアンカレはルール地方占領を宣言し、フランス軍・ベルギー軍は11日からルール地方の占領を開始した。ドイツのヴィルヘルム・クーノ内閣は消極的抵抗で対抗し、ルールの労働者はストライキに入った。ストライキに入った労働者にはドイツ政府が賃金を支払うことで応じたが、財源がなかったために紙幣増発で対応されることとなった。 この情勢下でドイツのインフレーションはさらに激化しており、1922年12月に1ポンド=3万4858マルクだったのが占領直後には1ポンド=11万マルクにまで低下した。占領によってドイツ産業界の心臓であるルールを失ったことと、ライヒスバンクによる紙幣増発は状況をさらに悪化させた。またフランスとベルギーはルールにおける抵抗がやむまで交渉に応じないと強硬な態度を続けたため、インフレはますます悪化し最終的にはおよそ一兆倍の規模に達した。ドイツ政府は新たな賠償支払い原案を提示したが、連合国に拒否された。加熱するインフレのためドイツ国内の政情も不安定化し、ドイツ共産党や右派のミュンヘン一揆などの反乱が相次いだ。このため新首相グスタフ・シュトレーゼマンは9月26日の消極的抵抗の停止と11月15日のレンテンマルク発行によってインフレを収め、連合国側との再交渉に臨んだ。イギリスはアメリカに賠償委員会への参加を求め、12月にアメリカのチャールズ・ドーズが賠償委員会に参加した。
※この「ルール占領とインフレーション」の解説は、「第一次世界大戦の賠償」の解説の一部です。
「ルール占領とインフレーション」を含む「第一次世界大戦の賠償」の記事については、「第一次世界大戦の賠償」の概要を参照ください。
ルール占領とインフレーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:46 UTC 版)
「ヴァイマル共和政」の記事における「ルール占領とインフレーション」の解説
「ルール占領」、「ミュンヘン一揆」、および「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照 ヴェルサイユ条約の下で定められた高額な戦争賠償金はドイツの支払い能力を超え、支払いは滞りがちになった。しかし、フランスはドイツが意図的に支払いを遅らせており、連合国への反抗だとみなし、石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてるため、1923年1月11日から、ベルギーとともにドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領を開始した。ドイツ政府はこれに官公吏のフランスへの協力を禁止し、鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける「消極的抵抗」で対抗した。また右派による輸送機関への破壊工作も行われた。消極的抵抗は当初ドイツ国内で熱狂的に支持されたが、ドイツ産業の心臓部であるルール地方の停止は経済に重大な影響を与えた。 かねてから進行していたインフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となった。これにより中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が進んでいった。このため社会不安はますます進んでいった。クーノ内閣の政策は行き詰まり、8月には議会から不信任を突き付けられた。8月12日にクーノ内閣は倒れ、国家人民党と共産党を除く各党の支持を得たグスタフ・シュトレーゼマンが首相となった(13日にシュトレーゼマン政権発足)。シュトレーゼマンは占領への消極的抵抗を中止し、11月15日にパピエルマルクから国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行い、インフレの沈静化に成功した。これに一役買ったのが、通貨全権委員のヒャルマル・シャハトであった。 一方で政情不安は左右の蜂起を招いた。中部ドイツのザクセン州・テューリンゲン州では、共産党員が内閣に入閣、さらに軍事組織を形成して全ドイツへの革命を起こそうとした。これを察知した国防相オットー・ゲスラーは軍の派遣を行ったため両州の政権は崩壊した。この際、共産党は一斉蜂起を計画したが、直前になって中止した。しかし連絡ミスによりハンブルクでは暴動が発生した。 一方バイエルン州ではグスタフ・フォン・カールが州総督となり、反中央政府の姿勢を明らかにした。国家社会主義ドイツ労働者党をはじめとする州の極右派はドイツ闘争連盟を結成し、11月8日に「ベルリン進撃」のためのクーデターミュンヘン一揆を起こした。一揆はバイエルン州の警察によって鎮圧されたが、政府による鎮圧はされなかった。この間の連邦政府の政権は不安定で、10月4日には第1次シュトレーゼマン内閣が辞職、同月6日、第2次シュトレーゼマン政権が発足したものの、社会民主党は右派に対する姿勢が弱腰であるとして連立を離脱、11月23日にシュトレーゼマン内閣は崩壊した。後継内閣は中央党のヴィルヘルム・マルクスが組織し、シュトレーゼマンは外相となった。同月30日にマルクス政権が発足、以後シュトレーゼマンは6つの内閣で外相を務める事になる。
※この「ルール占領とインフレーション」の解説は、「ヴァイマル共和政」の解説の一部です。
「ルール占領とインフレーション」を含む「ヴァイマル共和政」の記事については、「ヴァイマル共和政」の概要を参照ください。
- ルール占領とインフレーションのページへのリンク