ルノー時代
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1981年 第3戦アルゼンチンGPにて3位となり、初表彰台を獲得。第8戦の母国フランスGPでは、予選3位からFLをマークしての初優勝を達成した。その後、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝するなど、計6度の表彰台でランキング5位となった。 一方でマシントラブルの多さにも悩まされ、表彰台に立った6レース以外は全てリタイアであった。 1982年 開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦中5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のPPを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回のみ、最終的なランキングは4位に留まりチャンピオン獲得はならなかった。 また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂され、第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝、プロストは2位に終わった。 この年、共に親友であったフェラーリのジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのチームメイト同士の確執、その結末としてのヴィルヌーヴの事故死、また、ピローニを再起不能へ追い込んだ雨の事故といった出来事が、その後のレース人生に影響を与えた。 1983年 第3戦の母国フランスGPで、シーズン初勝利をPP、FL、優勝のハットトリックで達成すると、第6戦ベルギーGPでポールトゥウィンを飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦イギリスGP、第11戦オーストリアGPで優勝するなど、ブラバムのネルソン・ピケに対し、オーストリアGP終了時点では14ポイントのリードを築いていた。 しかし第12戦オランダGPにて、42周目にピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイアを喫す。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦イタリアGPはリタイア、第14戦ヨーロッパGPは2位に終わり、この2戦を連勝したピケに2ポイント差にまで詰め寄られる。迎えた最終戦南アフリカGPでも流れを変えることはできず、見せ場のないままレース前半にリタイア。3位でフィニッシュしたピケに逆転され、2ポイント差でチャンピオンを逃した。 (特殊燃料の使用疑惑など)ブラバムの戦闘力向上に対してルノーは手をこまねいていたが、チームは敗戦の原因をプロストに転嫁。フランス国内でもバッシングを受け、チームを去ると共に家族揃ってスイスへ移住する。これにロン・デニスがアプローチしたことで、古巣マクラーレンへの復帰を決めた。
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ルノー時代
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「ケビン・マグヌッセン」の記事における「ルノー時代」の解説
2016年、2015年にロータスF1チームとして参戦していたチームをルノーF1が買収し、ルノーがワークス参戦することが発表されると同時にそのドライバーとして起用されたことが発表された。チームメイトはジョリオン・パーマー。チームが復帰初年度ということもあり、戦闘力が高いとは言えないマシンであったが、入賞2回の計7ポイントを獲得した。一方でチームは、ルノーに移籍するニコ・ヒュルケンベルグのチームメイト探しに難航した。チームはマグヌッセンのオプション行使期限を延長するなど最後まで候補に入っていたが、最終的には自ら残留オファーを断り1年限りでルノーを去ることとなった。
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ルノー時代
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「デレック・ワーウィック」の記事における「ルノー時代」の解説
トールマンでの走りが認められ、1984年にはルノーに移籍しRE50をドライブ。開幕戦ブラジルグランプリでは、中盤よりトップを走行するが、残り11周でサスペンショントラブルによりリタイヤ。その後は2位2回・3位2回・4位1回・FL1回という成績を残し、予選でも3度の3位グリッドなど上位に食い込むが、勝利を手にすることはなかった。チームメイトのパトリック・タンベイに対しては、予選では10勝6敗と上回り、決勝での獲得ポイントでも上回っている。この活躍は高評価され、ウィリアムズが彼にアプローチを取った。フランク・ウィリアムズはリジェに移籍したジャック・ラフィットの代役としてワーウィックに白羽の矢を立てたのだが、しかしこの時点でウィリアムズのホンダ・ターボでの勝利は1984年ダラスグランプリにおけるケケ・ロズベルグのみであり、ワーウィックはルノー残留を選択し1985年の再契約を交わした。断られたウィリアムズはナイジェル・マンセルと契約。果たして1985年、ホンダ・エンジンを搭載するウィリアムズ・FW10は4勝を挙げ、その中にはマンセルのF1初勝利も含まれた。ウィリアムズ・ホンダは以後2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得するなど最強を誇ることになりワーウィックは後悔することとなった。 1985年のルノー・チームはRE60に高い戦闘力が無く、完走率も下がり入賞は5位2回・6位1回、予選でも2桁グリッドが定位置となった(ベストは3度の6位グリッド)。チームメイトのタンベイに対しても、予選(7勝8敗)・決勝ともに下回った。
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ルノー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:26 UTC 版)
1979年 2年目の1979年にはルノーに移籍。前半戦は予選で下位に沈んでいたが、第8戦フランスGPでは2番グリッドを獲得し、決勝でもジル・ヴィルヌーヴとのバトルの末3位に入り、初入賞で表彰台に上がった。ここから頭角を現すこととなり、その後2位を2度記録した他、第11戦オーストリアGP・第12戦オランダGPでは連続PPを獲得している。勝利はなかったが、獲得ポイントでチームメイトのジャン=ピエール・ジャブイーユを上回った。 1980年 1980年には第2戦ブラジルGPにて初優勝し、続く第3戦南アフリカGPでも優勝。また予選では、第10戦オランダGPから第12戦イタリアGPまで3連続PPを獲得するなど、チームのエースドライバーへと成長していった。 1981年 1981年より、ジャブイーユに代わってアラン・プロストがチームメイトとなる。この年のアルヌーは予選で4度のPPを獲得したものの、決勝での最高位は第11戦オーストリアGPの2位(この年唯一の表彰台)と優勝はならなかった。デビュー2年目のプロストが3勝を挙げ、双方が完走したレースでは共に前でフィニッシュしている状況の中、チームは次第にプロスト寄りとなり、アルヌーの立場は脅かされることとなる。 1982年 1982年も、アルヌーは予選でこそ多くのPPを獲得していたが(最終的に5回)、プロストが開幕2連勝を記録したのに対し、なかなか勝利することが出来なかった。地元の第11戦フランスGPにおいて、ようやく2年ぶりの優勝を手にするが、内容は再三のチームオーダーを無視し、タイトル争い中だったプロストを差し置くというものだった。立場はかえって悪化し、第15戦イタリアGPでシーズン2勝目を挙げるも、この年をもってチームを離脱する結果となった。
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