マルクス経済学者・マルクス主義者による批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 16:28 UTC 版)
「マルクス主義批判」の記事における「マルクス経済学者・マルクス主義者による批判」の解説
「転形問題」を参照 マルクス経済学者・マルクス主義者によるマルクス経済学への批判も蓄積されている。 マルクスは、過去の経済学者は、資本主義がいかに利益を上げているかを説明できなかったが、これは搾取理論で解答できると主張する。資本家は労働者の労働力を購入する。商品のコストは、それを生産するために必要な社会的に必要な労働力の量で決定される。労働者が生き続けるために必要な労働(必要労働)を超えて行う剰余労働は、資本家のための剰余価値が生み出され、これがすべての利益の源となる。産業が機械化され、不変資本(工場設備・工作機械や原材料の購買にあてられた資本)と可変資本(労働力購買にあてられた資本を)が使用されるほど、利益率は低下する、つまり利益率は時間とともに低下するとマルクスは資本論第3巻で予測し、これが資本主義の崩壊につながる要因とされる。 しかし、マルクス経済学者のポール・スウィージーは『資本主義発展の理論』(1942年)においてこのマルクスの分析には問題があると批判した。また、スウィージーはマルクスが商品価値を生産価値に変換させたのは不満足なものであったと結論づけた。 マルクスの労働価値説によれば、労働集約型の産業は、労働力の少ない産業よりも高い利益率を持つはずであるが、これは経験的にも理論的にも誤りであり、マルクスは、実際の経済生活では価格は価値と体系的に異なると主張した。これは転形問題として知られており、洗練された議論があるが、マルクス理論がどの程度救済されるかについては依然として議論が続いている。労働だけが余剰価値を生み出すことができるというマルクスの主張を裏付ける分析はいまだ行われていないが、労働が価値を創造し、利益は搾取の結果であるという主張は、立証が難しくても、直感的な説得力を持っている。 マルクス経済学者の置塩信雄が1961年に発表した置塩の定理では、資本家がコストカットの技術を追求したり、実際の賃金が上がらなければ、利潤率は低下しない(必ず上がる)ことを証明した。 1970年代以降は、マルクス経済学内部でも意見は不一致となることが顕著になった。イアン・スティードマンは、物量が利潤率(したがって生産価値)を決定し、価値の水準はせいぜい利潤率(と生産価値)の決定において余剰なので、マルクスの価値理論は放棄されるべきだと論じた。 分析的マルクス主義の哲学者G. A.コーエンは『マルクスの歴史理論』(1978年)で、マルクスが生産力を重視する一方で、生産力の発展を説明するときに経済構造を優先させることに矛盾があると指摘する。たとえば、『共産党宣言』では「ブルジョアジーは、生産手段を絶えず革新することなしには存在できない」とあるが、これは生産力の発展をもたらす経済構造(資本主義)に説明上の優位性を与えている。しかしコーエンは、この矛盾は、次の「機能的説明」によって克服できるという。資本主義の経済構造は生産力を発展させる。これが資本主義の存在理由である。もし資本主義が生産力を発展させることができなければ、資本主義は消滅してしまう。マルクスは、経済構造が生産力を束縛し、発展させることができないとき、革命が起こり、時代が変わると主張している。 しかし、マルクスの歴史の一般理論を持っていたが、それはコーエンが主張するよりも柔軟であり、確定的なものではなかったとミラーはいう。また、セイヤーズは、コーエンの弁証法的推論を否定する解釈は間違っていると批判する。 分析的マルクス主義者のヤン・エルスターは、ある経済構造が生産力を発展させている間だけ存続するという前提はおかしいとコーエンを批判する。エルスターは、マルクスは生産力を最大限発展させるという目的を持って歴史を導く指導者が最善の経済構造を選択するという形而上学的な仮定をしていないが、誰のものでもない歴史の目的に訴えることを批判する。歴史の目的に訴えることについては、シモーヌ・ヴェイユも批判している。「ヘーゲルは、宇宙には隠された精神が働いており、人間の歴史はこの世界精神の歴史であり、それは精神的なものすべてと同様に、完成に向かって無限に傾いていると信じていた。マルクスは、ヘーゲル弁証法を逆さまだと非難し、世界精神に代えて物質を歴史の原動力として置き換えた。精神の本質は、善への絶え間ない願望とにあるが、マルクスはこのような精神の本質を物質に見出したように歴史をみなした」とヴェイユはいう。 分析的マルクス主義のジョン・ローマーは『マルクス派経済理論の分析的基礎』(1981年)で、企業の革新によって利潤率は上昇し、利潤率低下の法則に希望はないと批判した。 なお、分析的マルクス主義について青木孝平は、リベラリズムの倫理的個人主義と同じであると批判した。 マルクス主義者M・リュベルは『19世紀と20世紀の非市場社会主義』(1987年)で、また、市場経済による価格決定を取り入れる市場社会主義者のジュリアン・ルグランとソール・エストリンは『市場社会主義』(1989年)で、1968年のポーランド危機でイギリスに亡命した経済学者ヴロジメエルス・ブルスとポスト・ケインズ派経済学者カジミエルス・ラスキは『マルクスから市場へ』(1989年)で、マルクスや社会主義的国有化政策は市場経済の役割を理解していないと批判した。 時間的単一体系解釈(TSSI)の提唱者アンドリュー・クリマンは、マルクスの矛盾は時間的単一体系とみなされた誤解による結果だったとしている。アンドリュー・クリマンは、マルクスの価値説の内部矛盾は必然的にその説の過誤を意味する、過誤は修正すべきであるし、または棄却すべきであるとした。 デビッド・ライブマンも、マルクスにおける理論の展開には矛盾があると批判し、マルクスが資本論で述べた、オリジナルの政治経済批判は修正されるべきだと論じた。 他方、コーエン、J.ウルフ、N.ヴルサリスらは、労働価値説とは無関係に、マルクス主義の搾取理論は成立するという。また、ローマーは、搾取は商品と労働の不平等な交換として定義されるとする。労働者が収入で購入できる商品に具体化された労働の量が、その収入を得るために費やした労働の量よりも少ない場合、交換は不平等である。たとえば、8時間の労働で稼いだ賃金で、4時間で作られたコートを購入すると、8時間の労働を他人の4時間の労働に交換したことになり、搾取されていることになる。
※この「マルクス経済学者・マルクス主義者による批判」の解説は、「マルクス主義批判」の解説の一部です。
「マルクス経済学者・マルクス主義者による批判」を含む「マルクス主義批判」の記事については、「マルクス主義批判」の概要を参照ください。
- マルクス経済学者・マルクス主義者による批判のページへのリンク