マルクズ・ブイルク・カンとは? わかりやすく解説

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マルクズ・ブイルク・カン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/17 14:38 UTC 版)

マルクズ・ブイルク・カンモンゴル語: Marquz Buiruq Qan、? - 1100年)は、11世紀末頃に活躍したモンゴル高原中央部の遊牧民集団ケレイト部のカン

漢文史料の『遼史』において「阻卜諸部長」として言及される磨古斯と同一人物であったと考えられている。『集史』などのペルシア語史料の表記ではمرغوز بویروق خان(Marghūz Būīrūq Khān)と表記される。

概要

マルクズ登場以前のケレイト

ケレイト部族の前身は、『イェニセイ碑文』などに見える「九姓タタル国(toquz tatar eli)」、また『遼史』などの漢文史料で阻卜として言及される遊牧集団であったと考えられている[1]10世紀初めに興った契丹国(遼朝)はモンゴル高原の阻卜に幾度も出兵し、特に開泰元年(1012年)11月にはウイグル帝国の旧都オルド・バリク(窩魯朶城)を拠点に阻卜が兵を挙げたが、遼朝の蕭図玉らによって平定された[2][3][4][5]。なお、この時反乱軍を率いた人物は「石烈太師阿里底」あるいは「七部太師阿里底」と表記されるが、「石烈」は「克烈(ケレイト)」の誤記、「七部太師」は『集史』の伝える「ケレイトに往昔一人の部族長がおり、七人の息子がいた……」という伝承に対応する称号と見る説があり、ケレイト部族長の遠祖と推定される[6]

一連の戦役を経てケレイトは一時遼朝に屈服したようで、重熙14年(1045年)には「阻卜大王屯禿古斯(トン・トクズ)が諸酋長を率いて来朝した」とされ、続いて重熙22年(1053年)にも馬や駱駝を献上したとの記録がある[7][8]。これより、おおよそ30年にわたってケレイトと遼朝は良好な関係を維持した[8]

マルクズの挙兵

しかし、大安年間までにモンゴル高原では「北阻卜酋長磨古斯」なる人物が登場し、大安5年(1089年)には遼朝より「阻卜諸部長」と認められた[9][7]。この人物こそがペルシア語史料の『集史』でオン・カンの祖父として名が挙げられるマルクズ・ブイルク・カンに相当すると考えられている[10]

大安8年(1092年)、知西北路招討使事の耶律何魯掃古は耶睹刮を討伐するためマルクズに協力を要請したが、この時契丹軍が誤って磨古斯を攻撃したことをきっかけに、マルクズは遼に反抗するようになった[11][12]。耶律何魯掃古はマルクズ討伐を図ったものの果たせずして帰り、大安9年(1093年)3月には都監の蕭張九がマルクズ討伐に派遣されたが敗戦を喫した[13]。さらに、同年10月には耶律撻不也が新たに起用されるも、マルクズは偽りの投降を申し出て油断させたところを急襲し、敗北した耶律撻不也は戦死するに至った[14][15]

大安10年(1094年)3月、連年の敗戦を受けて遼朝は新たに耶律斡特剌を都統に、耶律禿朶を副統に、耶律胡呂を都監にそれぞれ任じ、マルクズ討伐のため派遣した[16]。同年10月、耶律斡特剌・耶律那也耶律特麼らは大雪の中マルクズ率いる軍団を補足し、斬首1千級余りを得る勝利を収めた[17][18][19][20]。これによってマルクズは劣勢となり、同年12月および寿昌元年(1095年)7月にも耶律斡特剌がマルクズに勝利を収めたとの報告がなされた[21][22]

しかしマルクズの叛乱の完全平定にはまだ長い時間がかかり、遼軍によって遂にマルクズが捕らえられたのは寿昌6年(1100年)正月のことであった[23]。マルクズは同年2月に遼の道宗の下に連行され、市中で磔にされたと伝えられている[24][25]

マルクズの妻のクトクタイ

『集史』ケレイト部族志においてマルクズ自身の記録はさほど多くないが、マルクズの没後に妻のクトクタイが仇討ちを果たしたことについて下記の通り詳細に記述している。

オン・カンの祖父は名をマルグズ(Marghūz)といった。彼のことをブイルク・ハン(Buirūg Khān)とも言っていた。当時、タタル諸部族は人口が多く、強力であったが、常にヒタイ、ジョルジャ(Jurja)の君主達に臣従していた。当時、タタル部族長達の中に一人の人物がおり、〔彼のことを〕ナウル・ブイルク・ハン(Näuūr Büirūq Khān)と言った。遊牧地はブユル・ナウルと呼んでいる地の領域にあった。ある時、〔ナウル・ブイルク・ハンは〕機会をとらえ、ケレイト部族長マルグズ・ブイルクを捕えてジョルジャの君主のもとに送った。ジョルジャの君主は彼を木に打ちつけて殺した。
しばらくしてからクトクタイ・ハリグチ(Qūtūqtai Harikjī)と呼んでいるマルグズの妻は彼女達の遊牧地がタタル諸部族と隣接していたので人を遣わして言った。「タタル部族長ナウル・ブイルク〔様〕に盃を一献さし上げたい。つきましては、百頭の羊と十頭の雌驟馬と、百オンドルの馬乳酒(qumiz)をそれぞれに五百マンの馬乳酒をおさめて、車に積んでいきます」と。〔彼女は〕夫の仇を討ちたいと考えて、完全武装の百名の勇士をそのオンドルの中に隠して車に乗せた。到着すると羊は料理人達に渡し、〔料理人は〕料理にとりかかった。〔彼女は〕言った。「宴会の時のために馬乳酒を車に積んで持ってきております」と。宴会〔場〕に着くとオンドルを積んだあの百台の車を家の向かいに持ってきて開けた。勇士達がとび出してきて、〔マルグズ・ブイルクの〕妻の従者達と共に、タタル部族長を捕えて殺した。そこにい多数のタタル人達も同様に殺した。 マルグズ〔ブイルク〕の妻がこのようなやり方で己が夫の復讐をとげたというこの事件はよく知られている。 — ラシードゥッディーン、『集史』ケレイト部族志[26]

なお、『集史』はマルクズを殺害したのをジョルジャの君主(=金朝皇帝)としているが、上述の通りマルクズ=磨古斯であるならば、「ヒタイの君主(=遼朝皇帝)」が正しいことになる[27]

サリク・カン

『集史』ケレイト部族志には見られないが、タタル部族志でのみ言及されるケレイト部族長として、サリク・カンという人物がいる。『集史』タタル部族志によると、サリク・カンはある時タタル首長の一人コリダイ・ダイル(Qōrïdāī Dāyīr)に不意を突かれて大敗を喫するも、ベテキン・ナイマン族のブイルク・カンの助けを得てタタル部族を破ったという[28]。また、チンギス・カンと同時代のケレイト部族長オン・カンは「幼いころ母とともにタタル部の捕虜となったことがある」との記録があり、オン・カンがタタル部の捕虜になったのは、まさに上記サリク・カンの時代のことであったと考えられている[29]

このサリク・カンについて、ポール・ペリオはマルクズと同一人物と見て、「サリク・カン」がテュルク語名、「マルクズ」がネストリウス派キリスト教徒としての洗礼名であると論じ、日本の村上正二もこの説を支持している[10]

しかし、陳得芝は「オン・カンが幼いころタタル部の捕虜となった」逸話は1140年代ころの事件と推定される[30]ことから、『遼史』で寿昌6年(1100年)に死去したと記される磨古斯=マルクズと同一人物とはみなせないと論じた[29]。陳得芝はサリク・カンがマルクズの没後にケレイト部族長になった人物で、本来はサリク・カンこそがオン・カンの祖父であったが、「クルジャクス・カン」という称号を共有したことから息子と混同されたのであろう、と論じている[29]

脚注

  1. ^ 白石 2025, pp. 208–209.
  2. ^ 『遼史』巻85列伝23蕭図玉伝,「蕭図玉、字兀衍、北府宰相海璃之子。……開泰元年十一月、石烈太師阿里底殺其節度使、西奔窩魯朶城、蓋古所謂龍庭単于城也。已而阻卜復叛、囲図玉于可敦城、勢甚張。図玉使諸軍斉射却之、屯于窩魯朶城。明年、北院枢密使耶律化哥引兵来救、図玉遣人誘諸部皆降」
  3. ^ 『遼史』巻15聖宗本紀6,「[開泰元年十一月]甲辰、西北招討使蕭図玉奏七部太師阿里底因其部民之怨、殺本部節度使覇暗並屠其家以叛、阻卜執阿里底以献、而沿辺諸部皆叛」
  4. ^ 陳 2005, p. 219.
  5. ^ 白石 2025, pp. 213–214.
  6. ^ 趙 2017, pp. 198–199.
  7. ^ a b 陳 2005, p. 220.
  8. ^ a b 白石 2025, p. 214.
  9. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安五年五月]己丑、以阻卜磨古斯為諸部長」
  10. ^ a b 村上 1972, p. 33.
  11. ^ 『遼史』巻86列伝24耶律何魯掃古伝,「耶律何魯掃古、字烏古隣、孟父房之後。……大安八年、知西北路招討使事。時辺部耶睹刮等来侵、何魯掃古誘北阻卜酋豪磨古斯攻之、俘獲甚衆、以功加左僕射。復討耶睹刮等、誤撃磨古斯、北阻卜由是叛命。遣都監張九討之、不克、二室韋与六院部・特満群牧・宮分等軍倶陥于敵」
  12. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安八年九月]辛酉、阻卜磨古斯殺金吾吐古斯以叛、遣奚六部禿里耶律郭三発諸蕃部兵討之」
  13. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安九年]二月、磨古斯来侵。……三月、西北路招討使耶律阿魯掃古追磨古斯還、都監蕭張九遇賊、与戦不利。二室韋・拽剌・北王府・特満群牧・宮分等軍多隠没」
  14. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安九年]冬十月庚戌、有司奏磨古斯詣西北路招討使耶律撻不也偽降、既而乗虚来襲、撻不也死之。阻卜烏古札叛、達里底・抜思母並寇倒塌嶺」
  15. ^ 『遼史』巻88列伝26耶律撻不也伝,「撻不也、字胡独菫。……阻卜酋長磨古斯来侵、西北路招討使何魯掃古戦不利、招撻不也代之。磨古斯之為酋長、由撻不也所薦、至是遣人誘致之。磨古斯紿降、撻不也逆于鎮州西南沙磧間、禁士卒無得妄動。敵至、裨将耶律綰斯・徐烈見其勢鋭、不及戦而走、遂被害、年五十八」
  16. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安十年三月]庚戌、以知北院枢密使事耶律斡特剌為都統、夷離畢耶律禿朶為副統、龍虎衛上将軍耶律胡呂都監、討磨古斯、遣積慶宮使蕭糺里監戦」
  17. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安十年九月]是月、斡特剌破磨古斯」
  18. ^ 『遼史』巻89列伝27耶律斡特剌伝,「耶律斡特剌、字乙辛隠、許国王寅底石六世孫。……北阻卜酋長磨古斯叛、斡特剌率兵進討。会天大雪、敗磨古斯四別部、斬首千餘級。……明年、擒磨古斯、加守太保、賜奉国匡化功臣」
  19. ^ 『遼史』巻87列伝25耶律那也伝,「耶律那也、字移斯輦、夷離菫蒲古只之後。……大安九年……明年冬、以北阻卜長磨古斯叛、与招討都監耶律胡呂率精騎二千往討、破之」
  20. ^ 『遼史』巻87列伝25耶律特麼伝,「耶律特麼、季父房之後。……大安四年……是冬、討磨古斯、斬首二千餘級。十年、復討之」
  21. ^ 『遼史』巻25道宗本紀5,「[大安十年十二月]戊子、西北路統軍司奏討磨古斯捷」
  22. ^ 『遼史』巻26道宗本紀6,「[寿昌元年秋七月]甲寅、斡特剌奏磨古斯捷」
  23. ^ 『遼史』巻26道宗本紀6,「[寿昌六年春正月]辛卯、斡特剌執磨古斯来献」
  24. ^ 『遼史』巻26道宗本紀6,「[寿昌六年二月]乙酉、磔磨古斯于市」
  25. ^ 白石 2025, p. 215.
  26. ^ 訳文は志茂 (2013:869–870)より引用
  27. ^ 陳 2005, pp. 216–217.
  28. ^ 村上 1972, p. 32.
  29. ^ a b c 陳 2005, p. 222.
  30. ^ 『元朝秘史』はこの事件をオン・カンが13歳の時のこととすること、オン・カンは1203年に70歳で死去したとされることによる逆算(陳 (2005:222))。

参考文献

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史2 チンギス・カン物語』平凡社、1972年
  • 陳得芝「十三世紀以前的克烈王国」『蒙元史研究丛稿』人民出版社、2005年
  • 趙琦「10世紀末九族達靼之構成」『元史及民族与辺疆研究』第34輯、2017年
  • 白石典之『遊牧王朝興亡史:モンゴル高原の5000年』講談社、2025年

マルクズ・ブイルク・カン

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ケレイト」の記事における「マルクズ・ブイルク・カン」の解説

ブイル・ノールに住むタタル部族にナウル・ブイルク・カン(Nāūūr Būīrūq Khān)という部族長がいた。あるとき彼は機会狙ってケレイト部族長のマルクズ・ブイルク・カンを捕えて契丹族君主引き渡すことに成功し、マルクズ・ブイルク・カンは木打ちつけられて処刑された。マルクズの妻クトクタイ・ハリグチ(クトクタニ・ケレクチン)は復讐するため、タタル部族に酒を献上する偽って、百オンドル(ウンドル)の馬乳酒を5百万用意してタタル部向かった。しかし、中に入っているのは百人武装した勇士であり、到着するなり百人武装した勇士はナウル・ブイルク・カンをはじめとするタタル部人を次々と殺害した。こうして妻のクトクタイはマルクズの仇をとることができた。

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