耶律何魯掃古とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 耶律何魯掃古の意味・解説 

耶律何魯掃古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 15:20 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

耶律何魯掃古(やりつ かろそうこ、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は烏古隣。

経歴

孟父房の末裔。重熙末年、祗候郎君に補任された。清寧初年、安州団練使を加えられた。太康年間、懐徳軍節度使六部禿里太尉を歴任した。枢密官とともに東北辺境の行政を担当し、左護衛太保に転じた。道宗に近侍して、物言いは率直であり、他者の考えを忖度しなかったので、道宗に優遇された。

太安8年(1092年)、知西北路招討使事となった。耶睹刮らの侵攻があったため、何魯掃古は北阻卜の首長の磨古斯を誘って耶睹刮を攻撃し、多くの捕虜をえた。功績により左僕射の位を加えられた。再び耶睹刮らを討ったが、誤って磨古斯を攻撃したため、磨古斯は遼に反抗するようになった。太安9年(1093年)、都監の蕭張九を派遣して磨古斯を討たせたが勝利できず、2室韋と六院部・特満群牧・宮分などの軍が磨古斯に敗北した。何魯掃古は事実を報告しなかったことから、罪に問われて官を剥奪され、杖罰を受けた。

寿昌6年(1100年)、惕隠となった。侍中を兼ね、保節功臣の称号を賜った。乾統元年(1101年)、道宗が死去すると、宰相耶律儼とともに総山陵事をつとめた。乾統3年(1103年)、南院大王となった。致仕して、死去した。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「耶律何魯掃古」の関連用語

1
12% |||||

耶律何魯掃古のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



耶律何魯掃古のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの耶律何魯掃古 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS