マッケイのMadness of Crowds
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:24 UTC 版)
「チューリップ・バブル」の記事における「マッケイのMadness of Crowds」の解説
現代におけるチューリップ・バブルの議論は、スコットランドのジャーナリストであるチャールズ・マッケイによって1841年に出版された『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(邦題:狂気とバブル―なぜ人は集団になると愚行に走るのか)』から始まっている。マッケイは、群衆はしばしば合理的でない行動をすると論じ、チューリップ・バブルは、南海泡沫事件およびミシシッピ計画とともに、その初期の例であるとしている。マッケイの議論の多くは、ヨハン・ベックマンが1797年に著した『A History of Inventions, Discoveries, and Origins(邦題:西洋事物起原)』に依拠している。実際は、ベックマンの説明およびそこから派生したマッケイの議論は、1637年に匿名で発行された投機への反対を掲げる3つの小冊子を主な情報源としていた。マッケイの迫真的な本は、以後何世代にも渡り経済学者や株式市場参加者の間で有名だった。チューリップ・バブルを投機バブルだったとするマッケイの描写は現在でも有名だが、瑕疵があり、1980年以降経済学者によって様々に反駁されている。 マッケイによれば、17世紀初頭におけるチューリップ人気の高まりは、オランダ全体の注目を集め、「最下層民までもがチューリップの取引に手を出すようになった」。1635年までに、ある取引において、40個の球根が100,000フローリン(ギルダー)で購入されたと記録されている。これに対し、バター1トンの価格は約100ギルダーであり、熟練工の年収が約150ギルダーであり、「肥えた豚8頭」の価格は240ギルダーであった。(社会史国際研究所によれば、1ギルダーの購買力は2002年時点において10.28ユーロと同等である。) 1636年までにはオランダ中の市や町の取引所でチューリップが取引されるようになっていた。これにより社会のあらゆる階層がチューリップ取引に参加するようになった。マッケイは、チューリップに投機するため財産を売却したり交換に出す人々について詳述しているが、中にはSemper Augustusの球根の現物2個のうち1個と12エーカー(49,000m²)の土地の交換を申し出た例や、Viceroyの球根1個を2,500ギルダー相当の財産(表に記載)で購入した例などがある。 成り金が急増した。黄金の餌が目の前にぶら下がっていたのである。まるで蜂蜜のつぼにハエが群がるように、人々は引きも切らずチューリップ市場へ押し寄せた。チューリップ熱は永遠に続く、世界中の金持ちがオランダに注文を出してきて、こちらの言い値で買ってくれるだろう。ヨーロッパの金持ちもゾイデル海沿岸に集まってくるし、好景気に沸くオランダからは貧乏人などいなくなるに違いない。だれもがそんな想像を巡らせていた。貴族、市民、農民、商人、漁師、従者、使用人、煙突掃除人や洗濯婦までもがチューリップに手を出した。 高まる熱狂の中、有りそうに無いが面白い小噺が幾つか生まれ、マッケイが記録している。例えば、ある商人のチューリップ球根をタマネギと間違えて、食べるために持って行ったという船乗りの逸話がある。商人とその家族は船乗りを追いかけたが、見つけたときには「自分の船の船乗り全員に一年間大盤振る舞いできるほど」高価な朝食を食べている最中であった。その船乗りは球根を食べた咎により投獄されたという。実際には、チューリップは正しく調理しなければ毒があり、味も悪く、飢饉のときでさえまず食用されない。 転売益を目当てに買う人々で球根の値はどんどん上がった。しかしこれは球根を高値で買い求める人物が現れ続けない限り持続不可能である。1637年2月、チューリップの売り手は、高騰した球根代金を支払おうとする買い手をもはや見つけることができなくなった。そうと知れ渡った途端、チューリップに対する需要は崩壊し、価格は暴落した。投機バブルが破裂したのである。ある者は今となっては相場の10倍の価格でチューリップを購入する契約を結んだまま取り残されていた。またある者は手持ちの球根の価値が支払った対価のほんの欠片しか残っていなかった。マッケイは、オランダの人々は、動転して取引相手を告発したり非難したりするようになったとしている。 マッケイによると、パニックに陥ったチューリップ投資家はオランダ政府に助けを求めた。政府は、球根の先物買い契約をした者は10%の手数料を支払えば契約解除できると宣言した。すべての当事者が満足いくようにこの状況を解決しようとする試みがなされたが、失敗に終わった。マッケイによれば、バブル崩壊時点で最後に球根を掴まされていた個人については、代金の支払いを命じる裁判所は無かったという。何故なら裁判官はこれをある種の賭博による負債だと解釈し、法律上強制できないと判断したからである。 マッケイによれば、ヨーロッパの他の地方でも、オランダほどの状態には至らないものの、小規模なチューリップ・バブルは発生していた。マッケイはまた、チューリップ価格の落ち込みが、その後何年にも渡ってオランダ全土に不況をもたらしたとしている。
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