ポルノの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 15:26 UTC 版)
性は本来人間の根源にかかわる問題で、哲学や芸術(文学、絵画、彫刻等)的探求の対象になり得るものであり、性的表現の歴史は人間が芸術表現を始めた洞窟壁画や土偶の時代まで遡るであろう(多産・豊穣の女神像や生殖器崇拝など)。その表現形態の中には性的興奮を起こさせることを目的としたもの、すなわちポルノもある。文明社会においては、ポルノ表現は社会秩序を保つ理由などから、政治的・宗教的に何らかの規制がかけられるのが常であった。しかし、それでもポルノは人々の風俗の間で表現され続けてきたであろう。新しい表現媒体が発明されるごとに、新しいポルノが開拓されてきた。版画では春画やイ・モーディなどが知られ、写真ではポルノ写真やポルノ雑誌、映画ではポルノ映画、ビデオではアダルトビデオ、インターネットではアダルトサイトと、発明とほぼ同時にポルノに利用された。 明治時代以降の日本においては、わいせつ物頒布罪(刑法175条)により、性的興奮を起こさせる表現のうち、更に、通常人の羞恥心を害し、かつ、善良な性的道義観念に反するものは、わいせつ表現として法的規制がかけられている(性器描写に対するモザイク処理など)。しかしながら、わいせつな表現であっても、思想性や芸術性の高い文書については規制の対象から除外されるという議論が沸き起こることが少なくない(わいせつ#概説参照)。また、刑法175条自体が現状にそぐわない不合理な規制であり廃止すべきとの批判もある。日本では、わいせつな小説として伊藤整翻訳のD・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』や澁澤龍彦翻訳のマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』が、映画としては、日活ロマンポルノ事件、武智鉄二監督の『黒い雪』(1965)、大島渚監督の『愛のコリーダ』が猥褻性をめぐり裁判にまで発展した。大島渚は有名な知識人を多数動員して、裁判に勝訴した。寺山修司はハードコアの映画『上海異人娼館 チャイナ・ドール』(英語タイトル・Fruits of Passion、1981年)を監督した。 ポルノグラフィティの語源は、1800年代のフランス語「Pornographie」が1840年代から50年代に英語化されたものである。元々は売春婦に関する著作を表す言葉だったが、すぐに猥褻な文学や芸術を指すようになった。日本では、1960年代後半から70年代にかけて、性の自由化の喧伝と共に、スウェーデンのポルノグラフィ写真がノーカットで話題になったときに、ポルノグラフィという語が一部に知られるようになった。この後しばらく、ポルノとはエロ的なものを即物的に描写したものという、エロとポルノの使い分けが為されていた(エロティカを参照)。 近代社会においてポルノが公権力によって解禁されるのは、1960年代の世界的なカウンターカルチャームーブメントの一環としであった。1968年、アメリカ民主党のジョンソン大統領は「猥褻とポルノに関する諮問委員会(英語版)」を設置して、それにポルノ解禁問題をはかった。1969年、デンマークは検閲を廃止した最初の国となり、ポルノを合法化し、生産されたポルノは「店頭で」販売され爆発的な人気をもたらした。そして1969年のアンディ・ウォーホルによる『ブルー・ムービー』は、アメリカで広く劇場公開された明快なセックスを描いたアダルト映画となった。ウォーホルは、映画はポルノの黄金時代の独創的な映画であると語った。日本では日活が71年からロマンポルノを制作し始め、東映も東映ポルノを発表した。ウォーホルの映画は、マーロン・ブランド、マリア・シュナイダー出演の映画である『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の製作に大きな影響を与え、この作品はブルー・フィルムが発表されてから数年後にリリースされた。フランスの映画界は、ソフトコア・ポルノ『エマニエル夫人』と『O嬢の物語』を制作した。特に『エマニエル夫人』はフランスにおいても、日本においても女性客がつめかけるヒット作となった。 データは、過去数十年でポルノの視聴が増加していることを示唆しており、これは1990年代後半にWorld Wide Webに広く一般にアクセスして以来、インターネットポルノの成長に起因している。 2010年代を通じて、多くのポルノ制作会社とポルノのトップWebサイト(PornHub、RedTubeなど)が大手に買収されていった。
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