ボビーとマーティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 14:44 UTC 版)
「ボビー・ケント殺害事件」の記事における「ボビーとマーティ」の解説
被害者ボビー・ケントは、1973年5月12日にイラン系移民である父フレッド・ケントと母ファラ・ケント(旧姓カラム)の間に二人姉弟の長男として生まれた。父フレッドはアメリカで株式の仲買人を目指し、異国の地での厳しい訓練と資格取得を経て成功した人物であった。母ファラは看護師であった。ボビーは元気がよく活発な少年で小学校5年生の時には模擬選挙でクラスの「王様」に選ばれるなど周囲から一目置かれる子供時代を過ごした。ボビーはフロリダ州の地元ハリウッドにあるサウス・ブロワード高校に通い、周囲からは優秀で社交的な生徒として知られていた。 一方加害者の一人であるマーティ・プッチョは、1973年3月21日にマイアミにある映画製作会社の古参セールスマンであるイタリア系アメリカ人の父マーティン・シニアとパートタイマーとして病院の受付で勤務する母ヴェロニカの間に三人兄弟の次男として生まれた。一家は敬虔なカトリック教徒であり教会と日曜学校には欠かさず出席した。マーティは消極的で大人しいが、スケートボードやサーフィンに才能を示し、それらの事では年上の少年達からも一目置かれる存在であった。 ボビーとマーティは小学校3年生の時同じクラスになって以来の友人であり、当時からハリウッドの同じブロックに住んでいた。いつも行動をともにする二人は傍目から見れば親友であった。しかし、実際には2人の間には明確な上下関係が存在していた。マーティはボビーに「悪意と憎しみ」を感じており、ボビーはマーティを大人の目の届かない場所では罵倒したり殴ったりしていた。後にこの事件の犯人全員の裁判を担当した検事のティム・ドネリーによれば、ある弁護士はボビーを1957年から1963年にかけて放送されたコメディドラマ『Leave It to Beaver』に登場する二面性を持つ少年に準えて「エディ・ハスケルのようだ」と表現している。「近所の親たちは皆彼を愛していたが、子供たちは彼を違う目で見ていた」と。 中学1年の時、ビーチでボビーがマーティに売店に行って自腹で食べ物を買ってくるように言い付け、マーティが断ると鼻血が出る程激しく殴打するところが目撃された。また、この頃マーティは家族にしきりに引っ越ししたいと告げるなどの落ち着きの無い様子を見せるようになっていた。 中学2年生になってマーティは隣町のデイビーにある中学校に転校し、ボビーとは別の学校に通うようになった。以降もボビーと近所で顔を合わせたりお互いの家を行き来する関係は続いたが、マーティは自宅での落ち着きを取り戻し、ボビーは勉学に励んで優秀な成績を修めるようになっていった。しかし、マーティが高校進学の際、中学校の最寄りの高校よりもよりサーフィンをするのに適した時間割であるサウス・ブロワード高校を選択した結果、両者は再び親密な関係を再開した。のちに裁判でマーティはボビーについて「最初はいいやつに思えましたが、そのうち近所の子供たちに弱い者いじめを始めました。彼らを痛めつけるようになったんです。彼がいじめっ子だとわかると、ぼくは付き合うのが嫌になりました。でもその後、ぼくはサウス・ブロワード高校に転校して、そこでは彼以外に一人も知り合いがいなかったんです。それで(中略)また彼と一緒に食事時間うろうろし始めました」と語っている。 高校入学後マーティはボビーからの勧めでトレーニングジムに入会してウエイトトレーニングに励んだことで体重が増加し上手く波に乗ることが出来なくなり、またボビーがサーフィンをやっているビーチに車で乗り付ける程熱心にトレーニングを誘いに来ることに負けて得意だったサーフィンを止めてしまった。なお、ボビーはトレーニングの際に筋力を増強するためにステロイドを使用しており、これが彼の不安定で攻撃的な行動に大きく寄与していたとされる。こうしてまたボビーの暴力が始まり、マーティはしばしば顔を腫れ上がらせて帰宅するようになり、再び両親に引っ越しを懇願するようになった。ボビーはマーティにもステロイドの摂取を勧め、攻撃的な気分をもてあました二人は学校内で知的障害のある生徒を捕まえていじめるようになった。こうした行為はやがて学校当局に見つかり、要領の悪いマーティは一人停学処分を受け、おばのいるニューヨーク州の高校に転校する。しかし、学力もそぐわず、新しい生活にも馴染めなかったマーティはすぐに高校を中退してしまう。実家に戻ったマーティは日中は自宅に引きこもり、ボビーが学校から帰ってくると一緒にトレーニングに行く生活を送るようになった。そのうちにボビーは地元の大手スーパーマーケット・パブリックスのデリカテッセン・コーナーでサンドウィッチを作るアルバイトを始め、彼に誘われてすぐにマーティも同じ店で働き始めた。 互いの両親もまた、二人の友情に警戒心を抱いていた。マーティの両親である父マーティ・シニアと母ヴェロニカは、マーティがボビーと一緒にいるときにしばしば血を流していたり、あざだらけで帰ってくるので心配した。一方ボビーの父フレッドは、高校を中退したマーティを将来性のない怠け者だと考えており、息子と彼の友情は、自分が築いてきた未来を壊してしまうと感じていた。 この頃、ボビーのマーティに対する暴力はどんどんエスカレートし、マーティの友人が遊びに来たとき、マーティに攻撃の訓練を受けた飼い犬のドーベルマンと"遊ぶ"ように命令し彼に大怪我を負わせるなど、特に他の友人がいる場で彼に高圧的に接し、激しい暴力を加えるようになっていた。 ボビーはポルノ映画を製作することに強い興味を抱いており、2人はゲイポルノの映画を作り、市場に売り捌くことで大儲けをする計画を建てた。ボビーもマーティもこれらの映画に出演はせず、知人のつてを頼ってハリウッドに住むラリーという40代の同性愛者の男性に出演を依頼し承諾された。しかし、計画は杜撰で撮影スタジオの手配や小道具の準備こそ行ったものの、肝心の脚本は全く準備をしなかった。完成した映像に2人は『ラフ・ボーイズ』というタイトルをつけ、南フロリダ中のポルノショップに売りつけようとした。しかし、音声や映像の品質が悪く、内容自体もラリーが裸で踊ったりディルドで自慰をする以上の性的行為が映っていないため、どこのショップも彼らの申し出に応じなかった。ラリーはマーティの容姿に惹かれていたが、2人はしばしば彼の自宅から物を盗み、咎められた際にはボビーがラリーに対して激しい暴行を加えることもあった。再三の2人の振る舞いに嫌気が差したラリーは最終的に2人との関係を拒絶した。また、ボビーはマーティにゲイの振りをしろと命令したが、彼が実際にゲイらしく振る舞っていると見れば、それを理由に激しい暴行を加えた。 しかし完全に社会の落ちこぼれとなっていたマーティと違って、トレーニングや遊びに夢中になりながらもボビーは落ちこぼれることなく、高校卒業後はコミュニティ・カレッジの理学療法士養成課程に進路を決めていた。
※この「ボビーとマーティ」の解説は、「ボビー・ケント殺害事件」の解説の一部です。
「ボビーとマーティ」を含む「ボビー・ケント殺害事件」の記事については、「ボビー・ケント殺害事件」の概要を参照ください。
- ボビーとマーティのページへのリンク