プトレマイオス朝
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詳細は「アレクサンドロス3世」および「プトレマイオス朝」を参照 前4世紀半ば、ギリシア世界で急速に力をつけたマケドニア王国の王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。彼は前332年にエジプトを無血占領し、ナイルデルタ西端の地点に新都市アレクサンドリアの建設を命じた。アレクサンドロス3世はその後、ハカーマニシュ朝を完全に征服した後、バビロンで歿した(前323年)。以降、ギリシア人・マケドニア人たちは東地中海世界で大きな存在感を発揮し、各地にマケドニア系の王朝が建設された。この時代をヘレニズム時代と呼ぶ アレクサンドロス3世旗下の将軍たちは王の死後、その後継者(ディアドコイ)たるを主張して相互に争い、旧アレクサンドロス帝国領内に割拠した。この一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれ、その中心的人物の一人であったラゴスの子プトレマイオス(1世)がエジプトの支配権を確立し、前305年には王を称して独立王朝を築き上げた。この王朝は一般にプトレマイオス朝と呼ばれる。 プトレマイオス朝はギリシア本土から多数のギリシア人を集めて領内に入植させるとともに、現地のエジプト人の伝統的勢力とも密接な関係を結んで、古代エジプトの歴代王朝の中でも最も長く存続した王朝となった。この王朝の時代には、入植ギリシア人らの集中的な移住によるファイユーム地方の干拓事業や貨幣制度・税制の整備等を通じて国力の増進が図られた。首都アレクサンドリアにはムセイオンと呼ばれる研究機関とその付属図書館(アレクサンドリア図書館)が設置され、王室の支援の下、多数の学者が集まり、この都市をギリシア文化・学問の中心とした。当時のアレクサンドリアにおける学術的発展と研究成果は後のイスラーム圏を含む西洋世界の学問・哲学に大きな影響を遺しており、そこで活動した学者たちの中には数学者エウクレイデス(ユークリッド)や天文学者ヒッパルコスなどのように、今日でも良く名前を知られている人々もいる。 プトレマイオス朝はシリア、メソポタミア、イラン高原を支配するセレウコス朝や、ギリシア・マケドニアを支配するアンティゴノス朝と東地中海地域や南部シリア(コイレ・シリア)の支配権を巡って戦いを繰り返し、一進一退を続けたが、最終的にはエジプトの王朝という大枠に変化はなかった。セレウコス朝との戦いは6次にわたり、シリア戦争の名で知られている。このような戦いを繰り返しつつ、プトレマイオス朝は初代プトレマイオス1世(在位:前305年-前282年)の治世からプトレマイオス3世(在位:前247/246年-前222/221年)または4世(在位:前222/221年-前204年)の頃まで、東地中海・オリエント世界における有力な勢力として権勢をふるったが、前2世紀末までには地中海で大きな勢力を持ち始めていたローマの強い影響を受けるようになった。プトレマイオス朝の王たちはローマの政争に関与するとともに、その地位をローマからの支持に依存するようになり、実質的にその従属国となっていった。プトレマイオス朝の実質的な最後の王となったクレオパトラ7世は、ローマの有力者ユリウス・カエサルに接近し、彼との間に息子(カエサリオン、プトレマイオス15世)を儲けるなど密接な関係を築いたが、カエサルは前44年にマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らによって暗殺された。その後のローマの内戦ではクレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結びオクタウィアヌスと戦ったものの、前31年のアクティウムの海戦で敗れ、翌前30年には自殺に追い込まれた。これによってプトレマイオス朝は滅亡し、その後初代ローマ皇帝(アウグストゥス)となったオクタウィアヌスはエジプトを皇帝属州アエギュプトゥスとした。
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プトレマイオス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:13 UTC 版)
ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。 紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。
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プトレマイオス朝
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「プトレマイオス朝」の解説
フィリッポス・アリダイオス(紀元前323-317年)は、トトメス3世の祠堂を赤色花崗岩の祠堂に置き換えた。それは2つの部屋からなり、神殿の主軸沿いにあった。オペト神殿は、カルナック複合体において構成される最後の重要な礼拝建造物であった。
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