プトレマイオス朝とは? わかりやすく解説

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プトレマイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「プトレマイオス朝」の解説

詳細は「アレクサンドロス3世」および「プトレマイオス朝」を参照4世紀半ばギリシア世界で急速に力をつけたマケドニア王国の王アレクサンドロス3世大王在位:前336年-前323年)がハカーマニシュ朝対す遠征開始した。彼は前332年エジプト無血占領し、ナイルデルタ西端地点新都市アレクサンドリア建設命じたアレクサンドロス3世その後ハカーマニシュ朝を完全に征服した後、バビロンで歿した(前323年)。以降ギリシア人マケドニア人たちは東地中海世界で大きな存在感発揮し各地マケドニア系の王朝建設された。この時代ヘレニズム時代と呼ぶ アレクサンドロス3世旗下将軍たちは王の死後、その後継者(ディアドコイ)たるを主張して相互に争い、旧アレクサンドロス帝国領内に割拠した。この一連の戦いディアドコイ戦争呼ばれ、その中心的人物の一人であったラゴスの子プトレマイオス1世)がエジプト支配権確立し、前305年には王を称して独立王朝築き上げた。この王朝一般にプトレマイオス朝と呼ばれる。 プトレマイオス朝はギリシア本土から多数ギリシア人集めて領内入植させるとともに現地エジプト人の伝統的勢力とも密接な関係を結んで古代エジプト歴代王朝の中でも最も長く存続し王朝となった。この王朝時代には、入植ギリシア人らの集中的な移住によるファイユーム地方干拓事業貨幣制度税制整備等を通じて国力増進図られた。首都アレクサンドリアにはムセイオン呼ばれる研究機関とその付属図書館アレクサンドリア図書館)が設置され王室支援の下、多数学者集まり、この都市ギリシア文化・学問の中心とした。当時アレクサンドリアにおける学術的発展研究成果は後のイスラーム圏を含む西洋世界学問哲学大きな影響を遺しており、そこで活動した学者たちの中には数学者エウクレイデスユークリッド)や天文学者ヒッパルコスどのように今日でも良く名前を知られている人々もいる。 プトレマイオス朝はシリアメソポタミアイラン高原支配するセレウコス朝や、ギリシア・マケドニアを支配するアンティゴノス朝東地中海地域南部シリアコイレ・シリア)の支配権巡って戦い繰り返し一進一退続けたが、最終的にエジプト王朝という大枠変化はなかった。セレウコス朝との戦いは6次にわたり、シリア戦争の名で知られている。このような戦い繰り返しつつ、プトレマイオス朝は初代プトレマイオス1世在位:前305年-前282年)の治世からプトレマイオス3世在位:前247/246年-前222/221年)または4世在位:前222/221年-前204年)の頃まで、東地中海オリエント世界における有力な勢力として権勢ふるったが、前2世紀末までには地中海で大きな勢力持ち始めていたローマの強い影響を受けるようになった。プトレマイオス朝の王たちはローマ政争関与するとともに、その地位ローマからの支持依存するようになり、実質的にその従属国となっていった。プトレマイオス朝の実質的な最後の王となったクレオパトラ7世は、ローマ有力者ユリウス・カエサル接近し、彼との間に息子カエサリオンプトレマイオス15世)を儲けるなど密接な関係を築いたが、カエサルは前44年マルクス・ユニウス・ブルトゥスブルータス)らによって暗殺された。その後ローマの内戦ではクレオパトラ7世マルクス・アントニウスと結びオクタウィアヌス戦ったものの、前31年アクティウムの海戦敗れ、翌前30年には自殺追い込まれた。これによってプトレマイオス朝は滅亡しその後初代ローマ皇帝アウグストゥスとなったオクタウィアヌスエジプト皇帝属州アエギュプトゥスとした。

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プトレマイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:13 UTC 版)

古代エジプト」の記事における「プトレマイオス朝」の解説

ペルシアのこの圧政10年間しか継続せず、紀元前332年マケドニア王アレクサンドロス3世エジプトへと侵攻し占領された。アレクサンドロスペルシアを滅ぼすとエジプトそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年アレクサンドロス3世死去する後継者たちによってディアドコイ戦争勃発し王国分裂した。 この混乱の中でディアドコイ一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力拡大し紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝セレウコス朝シリア王国アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝中枢ギリシャ人によって占められていた。 プトレマイオス1世首都アレクサンドロスによって建設され海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館建設して学術振興するなどの善政敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世時代にも繁栄続いたが、その後暗愚な王と政局混乱続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世殺されたことで王家直系断絶し以後勢力増していく共和政ローマ影響力増大していくこととなった紀元前51年即位したクレオパトラ7世ガイウス・ユリウス・カエサルマルクス・アントニウスといったローマ有力者たちと誼を通じることでエジプト存続図ったが、紀元前31年オクタウィアヌス率いローマ軍アクティウムの海戦敗北し紀元前30年アレクサンドリア陥落クレオパトラ7世自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプト独立王朝時代終焉し、以後ローマ皇帝属州アエギュプトゥスとなった

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プトレマイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:12 UTC 版)

カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「プトレマイオス朝」の解説

フィリッポス・アリダイオス(紀元前323-317年)は、トトメス3世の祠堂赤色花崗岩祠堂置き換えた。それは2つ部屋からなり神殿主軸沿いにあったオペト神殿は、カルナック複合体において構成される最後重要な礼拝建造物であった

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