トーマス・ウルフとの出会いと別れ
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「マックス・パーキンズ」の記事における「トーマス・ウルフとの出会いと別れ」の解説
1928年秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイドから、ニューヨーク大学の講師トーマス・ウルフが書いた自伝的長編小説『失われしもの』"O Lost" について聞かされた。パーキンズは、ボイドから届けられた30万語に及ぶ原稿を、同僚と共に読み進めては前のページに戻ったりしながら何とか読み通した。読み終えた後、彼は作品が非凡なものだとは認めたものの、めちゃくちゃな構成であり、整えるためにいくつか大幅な削除が必要だった(実際出版までには6万6000語あまりが削除された)。それでも、数社から出版を断られていたウルフは、作品を丁寧に読み込んでくれたパーキンズに感謝して手直しに同意した。出版は翌年1月に正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイドへ原稿を持ち込んだ舞台装置家で当時パートナー兼パトロンだったアリーン・バーンスタイン(英語版)に伝えた。編集の途中で作品名は『天使よ故郷を見よ(英語版)』に変更され、1929年9月に出版された。ウルフはパーキンズへの感謝を序文に書きたがったが、パーキンズやボイドの意見を聞き入れ、結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞が付けられた。処女作刊行に尽力したバーンスタインに感謝していた一方、愛情が冷めていたウルフはこの関係を清算したがっていた。パーキンズはウルフから相談を受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになった。 ウルフの作品の分量が多いのは、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするためだったが、一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った。ウルフはこれに深く感謝しており、第2作『時と川について(英語版)』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞を付けた。編集者が表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ、幸せなことだと書き送っている。 また、息子を欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなものだった。パーキンズは仕事と家庭生活をきっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した。一方ウルフの側も同じように思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズがモデルのエドワーズ編集長について、次のように書き記している。 徐々に、フォックスの中に、亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージは思った。かくしてフォックスは第二の父——精神上の父——になったのである。 — トーマス・ウルフ、『汝再び故郷へ帰れず』 ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』"From Death to Morning" が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった。パーキンズとの決裂に追い討ちを掛けたのは、1936年にバーナード・デヴォート(英語版)が発表した非難記事だった。デヴォートはこの中で、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した。1935年7月にコロラド大学で開かれた作家会議で、ウルフは自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して『ある小説の物語』"The Story of a Novel"(1936年)を出版したが、デヴォートはこれを以てウルフを批判したのである。 自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた。パーキンズの同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性が、ウルフへ慰謝料の支払いを求める訴えを起こそうとした。パーキンズは彼女たちが金目当てに申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため示談で穏当に解決しようと考えていた。また、長年にわたって身近な人物を題材としてきたウルフには、裁判沙汰になれば名誉毀損訴訟を何件も起こされるリスクがあった。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた。この一件を機に、1936年11月12日、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した。1937年8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され、本腰を入れて出版社を探し始めたウルフは、エドワード・アズウェル(英語版)の説得を呑み、12月にハーパー・アンド・ブラザーズ(英語版)と契約することを決めた。 スクリブナー社、そしてパーキンズと袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意を表し、彼をモデルにした小説を書くことにした。この原稿を書いている途中で、執筆や周囲の騒乱に疲れたウルフは、そこまでの原稿をまとめてハーパーズの編集者であるアズウェルに託し、1938年5月にアメリカ西部の旅へと出かけた。ウルフは旅先のカナダ・バンクーバーで風邪をこじらせて重症の肺炎を発病し、シアトルのサナトリウムに入院した。その後脳の病気(脳腫瘍)が疑われたウルフは、1938年9月10日にボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院へ転院し手術を受けた。ウルフは手術の甲斐無く、結核性脳炎で9月15日に亡くなった(37歳没)。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、またノースカロライナ大学の『カロライナ・マガジン』へ追悼文を寄せた。パーキンズをモデルとした部分の原稿は、1940年に『汝再び故郷に帰れず(英語版)』としてハーパーズから出版された。また、1947年春、ウィリアム・B・ウィズダムが収集したウルフの資料集がハーバード大学図書館へ寄贈されたが、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』"Harvard Library Bulletin" に寄せている。
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