トーマス・ウルフとの出会いと別れとは? わかりやすく解説

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トーマス・ウルフとの出会いと別れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 05:07 UTC 版)

マックス・パーキンズ」の記事における「トーマス・ウルフとの出会いと別れ」の解説

1928年秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイドから、ニューヨーク大学講師トーマス・ウルフ書いた自伝的長編小説失われしもの』"O Lost" について聞かされた。パーキンズは、ボイドから届けられ30語に及ぶ原稿を、同僚と共に読み進めては前のページ戻ったしながら何とか読み通した読み終えた後、彼は作品非凡なものだとは認めたものの、めちゃくちゃな構成であり、整えるためにいくつか大幅な削除必要だった実際出版までには66000語あまりが削除された)。それでも、数社から出版断られていたウルフは、作品丁寧に読み込んでくれたパーキンズ感謝して手直し同意した出版翌年1月正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイド原稿持ち込んだ舞台装置家で当時パートナーパトロンだったアリーン・バーンスタイン(英語版)に伝えた編集途中で作品名は『天使よ故郷を見よ英語版)』に変更され1929年9月出版された。ウルフパーキンズへの感謝序文書きたがったが、パーキンズボイド意見聞き入れ結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞付けられた。処女作刊行尽力したバーンスタイン感謝していた一方愛情冷めていたウルフはこの関係を清算したがっていた。パーキンズウルフから相談受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになったウルフ作品分量が多いのは、登場人物心情動作全て再現しようとするためだったが、一方で記述分量などバランス感覚欠けていたので、この点をパーキンズ編集補ったウルフはこれに深く感謝しており、第2作『時と川について(英語版)』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞付けた編集者表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせ削除同意させたことなどを挙げて献呈断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ幸せなことだと書き送っている。 また、息子欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなのだったパーキンズ仕事家庭生活きっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した一方ウルフの側も同じよう思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズモデルエドワーズ編集長について、次のように書き記している。 徐々にフォックス中に亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージ思ったかくしてフォックス第二の父——精神上の父——になったのである。 — トーマス・ウルフ、『汝再び故郷へ帰れず』 ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年出した最初短編集『死より朝へ』"From Death to Morning" が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間当たり散らすようになったパーキンズとの決裂追い討ち掛けたのは、1936年にバーナード・デヴォート(英語版)が発表した非難記事だった。デヴォートはこの中で構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した1935年7月コロラド大学開かれた作家会議で、ウルフ自作執筆におけるパーキンズ助力語り、これに加筆して『ある小説物語』"The Story of a Novel"(1936年)を出版したが、デヴォートはこれを以てウルフ批判したのである。 自らの実体験元に天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕小説起こし始めたパーキンズ同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている。パーキンズこれでは会社居られなくなると漏らしエージェントから不用意にもこの発言伝えられウルフ激怒した。さらに具合悪いことに、『死より朝へ』収録短編モデルにされた女性が、ウルフ慰謝料支払い求め訴え起こそうとした。パーキンズ彼女たち金目当て申し入れた過ぎずウルフ執筆専念させるため示談穏当解決しよう考えていた。また、長年わたって身近な人物題材としてきウルフには、裁判沙汰になれば名誉毀損訴訟を何件も起こされるリスクがあった。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分守ってくれなかった」と不満を抱いた。この一件機に1936年11月12日ウルフ契約の解除手紙申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税清算した1937年8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され本腰を入れて出版社探し始めたウルフは、エドワード・アズウェル(英語版)の説得呑み12月にハーパー・アンド・ブラザーズ(英語版)と契約することを決めた。 スクリブナー社、そしてパーキンズ袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意表し、彼をモデルにした小説書くことにした。この原稿書いている途中で執筆周囲騒乱疲れたウルフは、そこまで原稿まとめてハーパーズ編集者であるアズウェル託し1938年5月アメリカ西部の旅へと出かけた。ウルフ旅先のカナダ・バンクーバーで風邪こじらせて重症肺炎発病しシアトルサナトリウム入院したその後脳の病気脳腫瘍)が疑われウルフは、1938年9月10日ボルティモアジョンズ・ホプキンズ病院転院し手術受けたウルフ手術甲斐無く結核性脳炎9月15日亡くなった37歳没)。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、またノースカロライナ大学の『カロライナ・マガジン』へ追悼文寄せたパーキンズモデルとした部分原稿は、1940年に『汝再び故郷帰れず(英語版)』としてハーパーズから出版された。また、1947年春、ウィリアム・B・ウィズダム収集したウルフ資料集ハーバード大学図書館寄贈されたが、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』"Harvard Library Bulletin" に寄せている。

※この「トーマス・ウルフとの出会いと別れ」の解説は、「マックス・パーキンズ」の解説の一部です。
「トーマス・ウルフとの出会いと別れ」を含む「マックス・パーキンズ」の記事については、「マックス・パーキンズ」の概要を参照ください。

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