チームの経歴
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1989年、元GPライダーのエルベ・ポンシャラル、エンジニアのギー・クーロン 、Bernard Martignac の3人によって設立された。チーム名の " テック " ( Tech )は、当時平忠彦のスポンサーに就いていた資生堂TECH21の語感をポンシャラルが気に入ったことから名付けられ、" 3 " はポンシャラル・クーロン・Martignacの3人(設立当初はチームメンバーはこの3人だけだった)にちなんでいる。 1990年よりドミニク・サロンをライダーに250ccクラスに参戦を開始し、当初はホンダやスズキのマシンを使用していたが、YZR250と中野真矢を起用した1999年からチームはヤマハと提携し、ワークスチームとして活動することになった。翌2000年には所属ライダーのオリビエ・ジャックと中野真矢がそれぞれシリーズ1位、2位を獲得する大活躍を見せた。 2001年にはジャック、中野と一緒に500ccクラスにステップアップし、YZR500で最高峰クラスを戦うことになった。中野はランキング5位で、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。ジャックは15位で終わる。また、この年以降の待遇はサテライトチームとなった。 2002年 体制は昨シーズンと同じ、中野・ジャック。シーズンの終盤、第14戦マレーシアGPから、新たに4ストロークマシンのYZR-M1が供給されるようになった。ジャックはランキング10位。中野はランキング11位で終了。 2003年 ジャックは継続。中野は同じヤマハ系のダンティンへ移籍。代わりにホンダ系のチームポンスからアレックス・バロスが加入。バロスはランキング9位。ジャックは12位。 2004年 ライダーを一新。ワークスヤマハよりマルコ・メランドリが。そして1年間の浪人生活を経て、阿部典史が加入する。またマシンカラーも、昨年のワークスがフォルトゥナでテック3がゴロワーズだったものが、ワークスのバレンティーノ・ロッシ、テック3の阿部がゴロワーズ。ワークスのカルロス・チェカとテック3のマルコ・メランドリがフォルトゥナといった、変則的なシーズンとなった。ランキングはメランドリが12位。阿部が13位と振るわなかった。 2005年 ライダーを一新。前年ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したルーベン・チャウスと、前年250ccランキング4位のトニ・エリアスの2人のスペイン人となる。またマシンカラーは昨年の変則的なものから、フォルトゥナに改められた。ランキングはエリアスが12位で、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。チャウスは16位だった。 2006年2007年の2シーズンはダンロップタイヤの開発を兼ね、「ダンロップ・ヤマハ・テック3」として活動したが、パフォーマンスの低さに苦しめられ、2008年には元のミシュランに戻した。なおライダーは、2006年はカルロス・チェカとジェームス・エリソンでランキングはチェカ15位、エリソン18位。2007年はシルバン・ギュントーリと玉田誠でランキングはギュントーリが16位、玉田が18位だった。 2008年シーズンもライダーを一新し、両名ともスーパーバイク世界選手権で2度のチャンピオン経験を持つ、コーリン・エドワーズがワークスヤマハから移籍。もう1人は前年SBKのテンケイト・ホンダでチャンピオンを獲得したジェームス・トスランドのコンビで戦うことになった。またダンロップは前年で最高峰クラスより撤退したため、ノースポンサーで戦う事となった。ランキングはエドワーズが7位。トスランドが11位と、前年・前々年よりも大幅にアップした。 2009年はマシン・ライダー体制は変わらず、新たにアメリカの栄養ドリンク、モンスター・エナジーのスポンサーを得て、「モンスター・ヤマハ・テック3」としてシーズンを戦った。ランキングはエドワーズが5位。トスランドが14位だった。 2010年はトスランドに代わり、前年にヤマハ・イタリア・チームでスーパーバイク世界選手権のチャンピオンを獲得したベン・スピーズがチームに加入し、アメリカ人ライダーでペアをくむ事となった。またスピーズは年間ランキング6位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。エドワーズはランキング11位だった。 またこの年から新しく始まったMoto2クラスにもオリジナルマシンで参戦し、高橋裕紀が1勝を挙げてシリーズ12位、ラファエレ・デ・ロサが27位となった。 2011年はスピーズがワークスヤマハに移り、後釜として昨年のスピーズと同じヤマハ・イタリア・チームに所属しSBKランキング5位のカル・クラッチローがエドワーズのチームメイトを務めた。この年のランキングはエドワーズが9位。クラッチローは12位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。 。Moto2ではライダーが一新され、チーム・アスパーよりマイク・ディ・メッリオと、125ccからのステップアップでブラッドリー・スミスのペアとなった。。さらにザビエル・シメオンが地元テレビ局RTLの支援を受け、3台目のミストラル610を走らせた。ランキングはスミスが7位と検討したが、ディ・メッリオが23位、シメオンが26位と沈んだ。 2012年 2005年から7年間ヤマハに在籍し続けたエドワーズはこの年から新たに始まるCRTチームのフォワード・レーシングへ移籍。その後釜としてレプソル・ホンダよりアンドレア・ドヴィツィオーゾが加入となる。この年はチームの新たに1000cc化となった最初の年と言うのもあり、また2011年にロッシが加入したドゥカティの低迷もあり、ドヴィツィオーゾがランキング4位で、3位表彰台を6回獲得。クラッチローがランキング7位で3位表彰台を2回獲得。チームランキングでもドカティワークスを上回る3位と、過去最高の成績を残した1年だった。 Moto2クラスは昨年のスミス、ディ・メッリオ、シメオンの3台体制から、スミス、スメオンの2台体制となった。ランキングはスミスが9位。シメオンは22位でシーズンを終えた。 2013年 ドビツィオーゾはドゥカティ・ワークスへ移籍し、代わってMoto2よりブラッドリー・スミスが昇格し、クラッチローとイギリス人ペアを組む。4年目となるMoto2は、ダニー・ケントとルイ・ロッシがペアを組む。またイギリスで介護ホームを展開してる「Maria Mallaband Care Group (MMCG)」がスポンサーとなることが発表された。 2020年、昨年加入したミゲル・オリベイラがチーム373回目の出場で初優勝を飾る。 2022年はダカール・ラリーに出場したダニロ・ペトルッチとスーパーバイク世界選手権に出場予定のイケル・レクオナが放出され、レミー・ガードナーとラウル・フェルナンデスが加入。
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チームの経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/07 18:18 UTC 版)
1992年、チーム代表のチラーノ・ムラローニと、イタリアの建設会社 Scot Costruzioni の社長 Giovanni Torri によって設立された。チームの本部オフィスはサンマリノにあり、技術部門がイタリアのチェゼーナにある。1994年から2009年までは、チームは全てのカテゴリでホンダのマシンを使い続けた。 アンドレア・ドヴィツィオーゾは、7年もの間チームに在籍していた。2002年に125ccクラスにデビューし、2004年に同クラスチャンピオンを獲得。2005年に250ccクラスにステップアップ後もチーム・スコットに在籍した。 ドビツィオーゾは2005年にシリーズ3位になり、2006年と2007年には連続でシリーズ2位を獲得するなど、他メーカーに比べてあまり積極的に開発が行われていなかったホンダ・RS250RWで大健闘を見せた。 2008年、ドヴィツィオーゾはチームと一緒に最高峰MotoGPクラスにステップアップを果たす。チーム・スコットは、前年までの3年間コニカミノルタ・ホンダの名前で参戦していたJiRと共同でMotoGPチームを運営することになった。ドヴィツィオーゾの1台体制で臨み、ホンダのサテライト・チームの中では最も健闘した。表彰台を獲得し、他にもトップ5以内でのフィニッシュを6回記録、シリーズ5位の成績を収めた。 2009年シーズンはJiRとの共同体制を解消し、チーム・スコットが単独でMotoGPチームの運営を継続することになった。当初は、ワークスのレプソル・ホンダチームに抜擢されたドヴィツィオーゾに代わり、250ccクラスからステップアップした高橋裕紀の1台体制で臨んだが、第6戦カタルニアからはガボール・タルマクシが加入し、2台体制になった(タルマクシは125cc時代の2006年に在籍していたことがあるため、チームに復帰という形になる)。しかし、第8戦アメリカGPを前に高橋裕紀は契約を解除され、タルマクシの1台体制となった。高橋、タルマクシの両名とも最下位近辺の常連となってしまい、成功は収められなかった。 一方、この年が最後の開催となった250ccクラスではKTMから移籍してきた青山博一が見事チャンピオンを獲得、125ccクラスからステップアップしてきたラファエレ・デ・ロサがシリーズ6位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するという大活躍を見せた。 2010年、チームは資金難によりMotoGPクラスからは撤退、250ccクラス後継のMoto2クラスにのみ参戦することになった。当初ライダーはニッコロ・カネパにアレックス・デ・アンジェリスと、前年MotoGPクラスに参戦した二人が務めたが、第8戦ドイツGPからはデ・アンジェリスが青山博一の負傷代役としてMotoGPクラスに復帰したため、しばらくはカネパの1台体制での参戦が続いた。ところがチームは資金面でトラブルに陥り、第10戦チェコGPを前にチームは解散してしまった。しかし残ったスタッフが参戦を継続し、第12戦サンマリノGPからはチーム名を変え「M・レーシング」としてビモータのシャシーでカネパを走らせた。第14戦日本GP以降は、カネパに代わり國川浩道がライダーを務めた。 かつてチームに在籍していたライダーとしては、ブルーノ・カサノヴァ、ファウスト・グレシーニ、エミリオ・アルサモラ、セテ・ジベルナウ、ロベルト・ロカテリ、アルノー・ヴァンサン、マイク・ディ・メッリオらが挙げられる。
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