シュトラールズントにおける最期
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「フェルディナント・フォン・シル」の記事における「シュトラールズントにおける最期」の解説
1809年5月25日、シルの軍団は10時頃にシュトラールズントに到着した。彼は1807年から知っていたトリープゼー門 (de:Triebseer Tor) から町に入る。ダムガルテンで勝利を収めた後、要塞都市たるシュトラールズントでフランスによる支配からの、解放の狼煙が上がることを期待していたのである。共に戦ってきたレオポルト・フォン・リュッツォウ (de:Leopold von Lützow) 少尉に、彼はこう話している。 「我らには遊撃戦の基地として、シュトーラルズントが必要だ。たとえ名誉とともに戦死することになっても。」 シュトラールズントへの入城に続き、シルはメンヒ通り (de:Mönchstraße (Stralsund)) で戦うフランスの砲兵を破った。スウェーデン軍に勤務する士官、フリードリヒ・グスタフ・フォン・ペーターソン (de:Friedrich Gustav von Petersson) の助けでシルの部隊は、町を占領していたフランス軍を追い払うことができたのである。それからシルは破壊された防衛施設の修復を進め、周辺から約1000名の農民を募った。しかし、彼の到着は期待したほどシュトラールズントの市民を感激させなかった。なぜなら市民はシルほど愛国主義的な考えを持っておらず、むしろ常に負担を伴う戦闘行為に町が改めて巻き込まれることを嘆いていたからである。シュトラールズントで絶望的と思える状況に直面し、シルの部隊からも当惑する者が現れた。グラシアン (fr:Pierre Guillaume Gratien) 少将とエーヴァルト少将が、6000名(デンマーク軍とホラント軍)の優勢な部隊を率いて接近中だったからである。 シルの士官のうち、何名かはシュトラールズントから去った。その中には、レオポルト・フォン・リュッツォウも含まれていた。 1809年5月30日、シルは下記の布告を発表した。 「武器を手に実施されたこの町と要塞の占領を通じ、私は武運のおかげで征服者の権利を行使する。私の意図は、我々の作戦をもって不法に隷属させられ、王冠から暴力で奪われた土地を返還することにある。その王冠には、次のことが相応しいからである。しかしこの地が私の手から正統な所有者に返還されるまで、そして同所有者の財産が私のさらなる計画の遂行に結び付く限り、私はその所有者の財産を私のために 確保しなくてはいけない。しかし我が部隊の給養、被服やその他の生活物資のため全ての国庫、国有地からの収入、関税・消費税や同様の税が必要になった場合、 この地の全ての公庫は私のために管理されなくてはならず、経理担当者は私に対してのみ責任を持つものとする。この規則の違反や、それによって生じた横領 には要塞禁錮刑を科す。私によって設置された委員会が明日の午後、帳簿を確認し貯蓄を受領する。 シュトラールズント、1809年5月30日 この州の司令官、シル 1809年5月31日、フランス軍はシルの読み通り、彼自身が6日前に町へと通り抜けたトリープゼー門へ攻め寄せた。最初の攻撃は撃退される。しかし寄せ手はただ、陽動のためにトリープゼー門を攻めただけであった。主力はクニーパー門 (de:Kniepertor) に集中し、そこから市内へと前進を果たす。多勢を前に、シルの部隊は絶望的な抵抗を続けた。少数がフランケン門から逃げ延びたが、ほとんどの者は戦いの中で命を落とす。シル自身は、市外への脱出を果たせるという見込みからヨハニス修道院 (de:Johanniskloster (Stralsund)) を目指したが、フェーア通りを騎行している時、21番地の前で銃弾を受け、致命傷を負った。顔に傷を残し、下腹部を銃剣で刺し貫かれた遺体は市内の旧市場 (de:Alter Markt (Stralsund)) にある外科医の許へ運ばれた。1809年6月1日、同市で凱旋行進が行われる。続いてグラシアン少将が見守る中、シルの頭部が切り離され、勝利の印としてジェローム王の 許へ送られた。翌日、シルの遺体はシュトラールズントのザンクト・ユルゲン墓地の不明な場所に埋葬される。シルの戦いを助けたペーターソンは捕虜となり1809年6月4日、クニーパー門の前で銃殺に処された。現在はその場に銘板が設置されている。 およそ200名の騎兵と何人かの猟兵は突破に成功し、プロイセンへの自由な撤退を勝ち取り、故郷で除隊させられた。軍団の士官は、何人かは欠席裁判の状態で軍法会議にかけられる。数名は釈放され、他の者は要塞禁錮刑に処せられ、後からシルに従った6名は戦時逃亡の罪で不名誉除隊を宣告された。 他の一団はリューゲン島から海路を経てスヴィーネミュンデに逃れたが、残りは戦場に留まった。そして下士官兵557名が捕虜となる。そのうち、くじ引きによって14名がブラウンシュヴァイクの、現在ではシル記念碑 (de:Schill-Denkmal (Braunschweig)) がある場所で銃殺された。残りの者はフランスの受刑施設 (Bagnio) に収容された。捕えられた士官のうち11名はヴェーゼル (Wesel) に護送され1809年9月16日、即決裁判を経て銃殺された。1835年、同地にプロイセン軍 (Prussian Army) の手で記念碑が建てられている。シルの脱走罪を問う審理は、被疑者死亡のため国王が打ち切った。しかしシルの財産は脱走罪の通例に従い、国家に没収されている。 「終わりのない恐怖よりも、恐怖の中で迎える終わりの方が良い」という言葉はシルとこの時代に由来し、より大きな不利益を蒙ろうとも、ある状況下で早く最期を迎えようという彼の決意を感じさせるものである。
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