シュトラールズントの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:45 UTC 版)
「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「シュトラールズントの陥落」の解説
リューゲン島が陥落した後、全軍はシュトラールズントの町の攻略に集中した。町の状況はリューゲン島の失陥により、ほぼ絶望的となっていた。守備隊は塹壕に分散したプロイセン猟兵の狙撃を受け、大きな損害を被る。1715年12月1日、シュトラールズントに対する砲撃が始まった。これを受けてシュトラールズントの市長は、より大きな被害を免れるべく町を連合軍に無血で明け渡すよう、カール12世に要請したが拒否される。1週間後、プロイセン軍は全ての外堡に突撃した。陣地は次々と奪われていき、スウェーデン側の反撃も撃退された。同年12月17日には、カール12世が自ら守っていた最後の重要な角堡(英語版)、フランケン砦が制圧される。翌日、カール12世が敢行した奪還の試みは失敗した。 12月22日の夜、連合軍の大砲によって通行可能な突破口が要塞の塁壁に開かれ、水堀が寒さで凍結し、大規模な攻撃が迫ると、カール12世は捕縛を免れるべく3名の従者とともに攻囲された要塞から逃れた。そして小さなヨットに乗って部分的に凍結したシュトレーラ海峡(英語版)をヒッデンゼー島(英語版)に向かって通過し、そこに残っていた最後のフリゲート艦に移乗し、一行の捕縛を試みたペーター・ヴェッセル(英語版)大佐率いる艦隊の哨戒を掻い潜って安全にトレレボリ(英語版)に到着した。2日後の12月24日、シュトラールズントは連合軍に降伏した。
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