シュトラールズント攻囲戦の開始に至る作戦行動
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「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「シュトラールズント攻囲戦の開始に至る作戦行動」の解説
戦役における主要な戦闘:1715年 6月16日 – ヴィスマール攻囲戦(ドイツ語版)の開始。 7月12日 – シュトラールズント攻囲戦の開始。 8月8日 – ヤスムント沖の海戦(ドイツ語版) 8月22日 – ペーネミュンデ砦の攻略(ドイツ語版) 9月25日 - グライフスヴァルト湾の海戦(ドイツ語版) 11月15日 – シュトレーゾウの戦い(リューゲン島) 12月24日 – シュトラールズント要塞の陥落。 1716年 4月19日 – ヴィスマールの陥落。 1715年5月1日、それまで中立を保ってきたプロイセンはスウェーデンに宣戦した 。この時点では、カール12世の再征服によってシュトラールズント及びヴィスマールの要塞化された港や、リューゲン島、ウーゼドム島及びいくつかの小さな島がスウェーデンの掌中にあった。その他の地域は、引き続き連合軍が占領していた。 1715年5月1日以降、プロイセン軍はシュテッティーン近郊で野営を敷く。そこに14日後、アウグスト・クリストフ・フォン・ヴァッカーバート(ドイツ語版)大将指揮下のザクセン軍8,000名が合流する。プロイセン軍の上級指揮権は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が自ら担った。元帥アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世は、その下で指揮を執る。彼は経験豊富な指揮官であり、すでにスペイン継承戦争(1701年-1714年)においてもプロイセンの派遣軍を率いていたのである。 デンマーク軍の前進が遅滞したため、当初はペーネ川で前哨部隊の小競り合いが発生するに留まった。 同軍がメクレンブルクへの進撃を開始したのは、6月も後半に入ってからである。フリードリヒ・フォン・レーガルト中将指揮下の歩兵4個大隊と騎兵12個中隊を伴うデンマーク軍が、2,500名の守備隊を擁し、ドイツにおけるスウェーデン側の第二の基地となっていたヴィスマールを包囲した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世もフォン・デア・アルベ(ドイツ語版)少将に歩兵2個大隊と騎兵12個中隊を与え、攻囲軍を増強する。これによって、その兵力はおよそ8,000名となった。さらに、海上ではデンマークの艦艇がヴィスマールへの連絡を遮断した。 6月28日、プロイセン=ザクセン連合軍はついにシュテッティーンの陣営を出発した。プロイセン軍は抵抗を受けることなくローツ(英語版)で、ザクセン軍はヤーメン(英語版)でペーネ川を渡り、7月中旬にシュトラールズントの近郊でデンマーク軍と合流する。これらの軍団はヴュルテンベルク公カール・ルドルフ(英語版)元帥の指揮下にダムガルテンでレックニッツ川(英語版)を渡ったが、やはり敵軍の抵抗を受けなかった。 その前にカール12世は、ポンメルンに残っていた部隊をシュトラールズントへ撤収させていた。数でも質でも連合軍の方が優位に立っていたので、平野における決戦を避けたかったのである。特に指揮下の騎兵は、野戦に臨むだけの戦力がなかった。そのほとんどは騎馬を持たないか、戦場には不向きな農耕馬しか利用できなかった。
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