サカガウィアとの出会い
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「ルイス・クラーク探検隊」の記事における「サカガウィアとの出会い」の解説
1804年から1805年を跨いだ冬の間、一行は現在のノースダコタ州ウォッシュバーンの近隣のマンダン族の集落のそばに、フォート・マンダン(マンダン砦)という砦を建設した。ある日猛烈な嵐が一行を襲い、食べ物も無いまま小屋に閉じ込められる羽目になった。その時、ショーショーニー族インディアンの娘、サカガウィアと、その夫であるフランス系カナダ人のトゥーサン・シャルボノーが一行に加わり、魚を持ち寄って飢えた隊員達の命を救った。不幸にも隊員達は、魚には不慣れで食べた後具合が悪くなってしまうも、皆回復した。サカガウィアは、自身らが食べ物と金や宝石類を交換するため、西部遠方から赴いたショーショーニー族である(彼女は酋長の妹であった)ことを隊員達に話した(この時代ではよく起きていたが、彼女は幼い頃ヒダーツァ族に奴隷として連れられた。後の旅路で実兄と再会することになる)。彼女は西部へ向かった一行が遭遇するインディアン諸部族の言語にある程度通じており、通訳として隊員達を助けた。この1804年から1805年の冬にサカガウィアはシャルボノーとの間にできた息子、ジーン・バプティスト・シャルボノーを出産する。探検隊にはそれまで女性も乳児もいなかったため、サカガウィアとその赤ん坊は、その後の諸部族間との関係を和らげる助けとなった。 1805年4月、探検隊員のうちの数人が「帰還隊」としてマンダン砦から郷里へ戻された。ルイス・クラーク探検隊が発見した事柄について述べた報告書によれば、彼らは全部で108個の植物標本(なかには生きた動物も含まれている)、68個の鉱物標本、そしてクラークのアメリカ合衆国地図を含む資料を持ち帰った。他の標本は定期的にジェファーソンに送り返され、その中にはジェファーソンが箱を受け取った際も生きたままであったプレーリードッグもいた。 探検隊はミズーリ川と平行して川の源流まで進行し続け、馬を介してレミ峠のロッキー山脈分水嶺を渡った。カヌーの上で、隊員はクリアウォーター川、スネーク川、コロンビア川に接する山を下り、セリロ滝や現在のオレゴン州ポートランドを通り過ぎた。この時点で、ルイスはかなり海に近接していることで有名な山であるフッド山を発見した。クラークは松の大木に、 「ウィリアム・クラーク 1805年12月3日、1804年から1805年合衆国より陸路でここに至る」 と彫っている。 クラークは日記に、「海が見える!おお!喜びが!(Ocian in view! O! The Joy!、Oceanが正しいが原文ではOcianとなっている)」。ある日記の導入部には、「大南洋または太平洋へ流れるコロンビア川入り口の失意の岬(Cape Disappointment)」という見出しもあった。この頃、探検隊は旅路で2番目の冬を迎え、隊員達はコロンビア川の北側か南側のどちらで野営するか投票して決めた。結果として隊は川の北側(現オレゴン州アストリア)に野営をすることで合致し、越冬宿舎としてフォート・クラットソップという野営地を建てた。そこで冬を越す間、隊員達は帰還の準備のため海水を煮立てて塩を精製した他、ヘラジカなどの野生生物を狩り、インディアン達と互いに交流するなどしていた。この1805年から1806年にかけての冬はかなり厳しいものであったため、食用に適した食物を見つけるのが困難な時期を過ごした。驚くべきことに、隊員達は太平洋に多く生息していた鮭を食べなかった。 探検隊は出発地へ帰還する折り返しの旅を1806年3月23日に開始した。帰還する途中、ルイスとクラークはインディアン達から買い上げた4つの丸木舟と、以前に盗難に遭ったボートの「報復」と称して盗んだ1艘の船を使用した。しかしフォート・クラットソップを出発して1か月も満たないうち、滝周辺の陸上を運ぶのが極めて困難であると判断したため、丸木舟を遺棄してしまった。 ロッキー山脈分水嶺を横断後の同年7月3日、隊はルイスがマリアス川を探索できるよう2つに分割された。ルイス率いる4人の分隊は、その後ブラックフット族と出会った。彼らとの接触は当初好意的なものであったが、夜間にブラックフット族が隊の武器を盗み取ろうとしたことが明るみに出た。このことが発端となった争いで、2人のブラックフット族が死亡し、死は全て隊のせいであると非難された。その後ルイス、ドロイヤールとフィールド兄弟の4人の隊は、次のキャンプまで両日中に160キロメートル(100マイル)逃避した。一方でクラークの隊は、クロウ族の領土に足を踏み入れていた。クロウ族は「馬盗み」でよく知られていた。ある晩、クラークの隊の馬は全ていなくなり、一人のクロウ族も見当たらなかった。その後ルイスとクラークは8月11日にイエローストーン川とミズーリ川の合流地点に達するまで、別々で行動していた。クラークの隊は牛皮舟を利用して川を下っていた。双方の隊が再会した際、片目が盲目でもう片方の目も近眼であったクラークの隊のハンター、ピエール・クルザットがルイスをヘラジカと見間違えて発砲し、ルイスは腿を負傷した。そこから、一行は再び合流しミズーリ川に沿って手早く帰路につくことができた。そして1806年9月23日、遂に探検隊は出発地であるセントルイスへ到着したのである。 発見隊は真新しい合衆国の領土とそこに住んでいる人々、さらには領地に広がる川や山など、多くの重要な情報を持って帰ってきた。また探検隊は、北アメリカ大陸の地図作成にも偉大な貢献をした。
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