サカガウィアとの出会いとは? わかりやすく解説

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サカガウィアとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:39 UTC 版)

ルイス・クラーク探検隊」の記事における「サカガウィアとの出会い」の解説

1804年から1805年を跨いだ冬の間、一行現在のノースダコタ州ウォッシュバーン近隣マンダン族集落のそばに、フォート・マンダン(マンダン砦)という砦を建設したある日猛烈な嵐が一行襲い食べ物も無いまま小屋閉じ込められる羽目になったその時ショーショーニー族インディアンの娘、サカガウィアと、その夫であるフランス系カナダ人のトゥーサン・シャルボノーが一行加わり持ち寄って飢えた隊員達の命を救った不幸に隊員達は、には不慣れ食べた具合悪くなってしまうも、皆回復したサカガウィアは、自身らが食べ物と金宝石類交換するため、西部遠方から赴いたショーショーニー族である(彼女は酋長の妹であった)ことを隊員達に話した(この時代ではよく起きていたが、彼女は幼い頃ヒダーツァ族奴隷として連れられた。後の旅路で実兄再会することになる)。彼女は西部へ向かった一行遭遇するインディアン諸部族言語ある程度通じており、通訳として隊員達を助けた。この1804年から1805年の冬にサカガウィアはシャルボノーとの間にできた息子、ジーン・バプティスト・シャルボノーを出産する探検隊にはそれまで女性乳児もいなかったため、サカガウィアとその赤ん坊は、その後諸部族間との関係を和らげる助けとなった1805年4月探検隊員のうちの数人が「帰還隊」としてマンダン砦から郷里戻された。ルイス・クラーク探検隊発見した事柄について述べた報告書によれば、彼らは全部108個の植物標本なかには生きた動物含まれている)、68個の鉱物標本、そしてクラークアメリカ合衆国地図を含む資料持ち帰った。他の標本定期的にジェファーソン送り返され、その中にはジェファーソンが箱を受け取った際も生きたままであったプレーリードッグもいた。 探検隊ミズーリ川平行して川の源流まで進行し続け、馬を介してレミ峠のロッキー山脈分水嶺渡ったカヌーの上で、隊員クリアウォーター川、スネーク川コロンビア川接する山を下り、セリロ滝や現在のオレゴン州ポートランド通り過ぎた。この時点で、ルイスはかなり海に近接していることで有名な山であるフッド山発見したクラーク大木に、 「ウィリアム・クラーク 1805年12月3日1804年から1805年合衆国より陸路でここに至る」 と彫っている。 クラーク日記に、「海が見える!おお!喜びが!(Ocian in view! O! The Joy!、Ocean正しいが原文ではOcianとなっている)」。ある日記の導入部には、「大南洋または太平洋へ流れコロンビア川入り口失意の岬(Cape Disappointment)」という見出しもあった。この頃探検隊旅路2番目の冬を迎え隊員達はコロンビア川北側南側のどちらで野営する投票して決めた結果として隊は川の北側(現オレゴン州アストリア)に野営をすることで合致し越冬宿舎としてフォート・クラットソップという野営地建てた。そこで冬を越す間、隊員達は帰還準備のため海水煮立てて塩を精製した他、ヘラジカなどの野生生物狩りインディアン達と互いに交流するなどしていた。この1805年から1806年にかけての冬はかなり厳しいものであったため、食用適した食物を見つけるのが困難な時期過ごした驚くべきことに、隊員達は太平洋多く生息していた食べなかった。 探検隊出発地帰還する折り返しの旅を1806年3月23日開始した帰還する途中ルイスとクラークインディアン達から買い上げ4つ丸木舟と、以前盗難遭ったボートの「報復」と称して盗んだ1艘の船を使用した。しかしフォート・クラットソップを出発して1か月満たないうち、滝周辺陸上を運ぶのが極めて困難であると判断したため、丸木舟遺棄してしまった。 ロッキー山脈分水嶺横断後の同年7月3日、隊はルイスがマリアス川を探索できるよう2つ分割された。ルイス率いる4人の分隊は、その後ブラックフット族出会った。彼らとの接触当初好意的なものであったが、夜間ブラックフット族が隊の武器盗み取ろうとしたことが明るみ出た。このことが発端となった争いで、2人ブラックフット族死亡し、死は全て隊のせいであると非難された。その後ルイス、ドロイヤールとフィールド兄弟の4人の隊は、次のキャンプまで両日中に160キロメートル100マイル逃避した。一方でクラークの隊は、クロウ族領土足を踏み入れていた。クロウ族は「馬盗み」でよく知られていた。ある晩、クラークの隊の馬は全てなくなり一人クロウ族見当たらなかった。その後ルイスとクラーク8月11日イエローストーン川ミズーリ川合流地点達するまで、別々で行動していた。クラークの隊は牛皮舟を利用して川を下っていた。双方の隊が再会した際、片目盲目でもう片方の目も近眼であったクラークの隊のハンター、ピエール・クルザットがルイスヘラジカ見間違えて発砲しルイスは腿を負傷した。そこから、一行は再び合流しミズーリ川沿って手早く帰路につくことができた。そして1806年9月23日遂に探検隊出発地であるセントルイス到着したのである発見隊は真新しい合衆国領土とそこに住んでいる人々さらには領地広がる川や山など、多く重要な情報持って帰ってきた。また探検隊は、北アメリカ大陸地図作成にも偉大な貢献をした。

※この「サカガウィアとの出会い」の解説は、「ルイス・クラーク探検隊」の解説の一部です。
「サカガウィアとの出会い」を含む「ルイス・クラーク探検隊」の記事については、「ルイス・クラーク探検隊」の概要を参照ください。

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