コレラの複合病因説と衛生学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 10:24 UTC 版)
「マックス・フォン・ペッテンコーファー」の記事における「コレラの複合病因説と衛生学」の解説
19世紀の中頃から20世紀にかけて、ヨーロッパは度重なるコレラの大流行(パンデミック)に見舞われていた。コレラの猛威は個人の生命を脅かす医療上の問題だけでなく、経済的、社会的、法的な問題をも引き起こした。今でこそ、コレラの原因がコレラ菌であり、コレラ患者の糞便に混じって排出された細菌が水や食物を汚染して、別のヒトに感染することが判っているが、当時はまだ細菌が病気の原因になりうるということすら知られておらず、病気が起きるメカニズムについては二つの仮説が立てられ、そのどちらが正しいかについて論争が続いていた時代であった。 二つの仮説は、それぞれミアズマ(瘴気)説、コンタギオン(接触性伝染体)説と呼ばれる。ミアズマ説はコンタギオン説より古い学説で、毒によって汚染された沼などから立ち上る「悪い空気」(=瘴気、ミアズマ)などの汚染物質に触れることでヒトは病気になるという考え方である。一方コンタギオン説は、患者から患者に直接伝染しうる「接触性伝染体」(コンタギオン)が存在し、これと接触することによって病気が発生するという考え方である。しかし当時から既にどちらの学説にも不備があることが指摘されていた。ミアズマ説では流行地に行ってきた人が感染源になって別の土地で流行を引き起こす現象を説明することができなかったし、コンタギオン説では患者と間違いなく密接に接触している医療関係者が必ずしもコレラに罹らない理由が説明できなかった。 このような時代背景の中、ペッテンコーファーがバイエルン王国政府のコレラ対策委員会の一員として研究に着手したのは1849年のことであった。当初、彼は分析化学の手法を用いて患者血液や糞便などの分析を行ったが何の成果も得られず、ついには化学はまだ発展途上であって、コレラの謎を解くことはおろか、その発症に関わる基礎研究としての役割も果たせないのだと結論づけ、「糞尿を化学分析したところで脈をとるほどの成果も得られない、時代遅れの方法だ」という言葉まで残している。 病気を解明するための分析化学に見切りを付けたペッテンコーファーは、疫学にその解答を求めた、大規模なデータに基づいて、彼はコレラの病原体が腸管内部に存在しており、ヒトの糞便を用いて広まるという仮説を打ち立てた。ただし彼が考えたこのコレラ病原体はそれ自身が単独でヒトに接触しても発病させることはなく、土壌に存在している何らかの腐りかかった物質と混ざり合うことで、コレラ直接の原因になる環境汚染物質を作り出すというものであった。この病原体に対する学説はミアズマ説に近いものの、旧来のものとは異なりコンタギオンの存在を認めた上で環境汚染こそが病気の主因になるとする新しい第三の学説であり、「複合病因説」と呼ばれた。 この説に基づいて、ペッテンコーファーはコレラの流行を防ぐためには土壌から腐敗性の物質を除くことが重要であると考えた。特に生活排水や産業廃水が土壌に混じることを避けるために上下水道を整備することの重要性を政府と市民に強く訴え続けた。中でも1873年にミュンヘン市民に向けて行った講演では、イギリスの上下水道整備による死亡率改善の結果から綿密な計算を行い、ミュンヘンでは年間35万フローリンもの節約につながることを示した。このことは市民の健康維持、すなわち公衆衛生が行政にとって莫大な価値があることを具体的に示した初めての例だといわれている。これらの意見を受ける形でミュンヘンを中心に上下水道の普及が行われ、結果的に(患者から排泄されたコレラ菌が処理されることで)コレラの流行拡大にも歯止めがかけられた。また同時に、当時のヨーロッパで流行していた腸チフスによる死者も減少した。 これら一連の活動によって、衛生学は医学上で重要な学問として認識されるようになり、1875年以降、ミュンヘン大学をはじめとするドイツの大学の医学部では衛生学の講義が行われるようになった。そしてペッテンコーファー自身は近代的な公衆衛生の第一人者として、1876年(*)にはドイツ初となる衛生学講座をミュンヘン大学に創立し、その初代教授に就任した(*講座としての正式な設立は1879年だが、ペッテンコーファー自身は準備期間等を含めて1876年を創立年だと考えていた)。 衛生学に関する代表的書物をいくつも著し、また1883年には衛生学分野の科学論文雑誌「Archiv für Hygiene」(Archive for Hygiene) を創刊した。この科学雑誌は衛生学研究の中心的な役割を担うものになり、多くの医化学研究論文が投稿、掲載された、この科学雑誌は後にInternational Journal of Hygiene and Environmental Healthと名前を変え、2005年現在に至るまで継続している。 これらの業績によって、衛生学は当時のヨーロッパで医学分野の花形として中心的な役割を果たすものと考えられるようになり、ペッテンコーファーもまたドイツだけでなくヨーロッパにおける医学衛生学の権威としての地位を確立した。
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