コレラ禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 02:18 UTC 版)
詳細は「コレラの歴史」を参照 幕末以来、日本にはしばしばコレラが上陸して流行するようになり、コレラに罹患した人はあっけなく死んでしまうので、人びとは「コロリ」と呼んでおそれた。漢字では「虎列刺(コレラ)」「虎狼狸(コロリ)」の字があてられた。コレラの流行は、当時の都市生活の衛生状態が劣悪だったことにも起因している。西南戦争直後の1877年(明治10年)にも流行し、この年の夏は長崎から関西地方・関東地方に広がって、東京では北品川、市ヶ谷、本所において病院が新しく急造されるほどであった。この夏だけで614人がコレラのために死去している。 このコレラは翌78年にかけても流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、明治政府は、1878年(明治11年)8月、各国の官吏や医師も含めて共同会議をひらき、検疫規則をつくった。しかし、駐日英国公使であったハリー・パークスは、イギリス人が日本の法規を破ったとしてもイギリスの法規を破ったのでなければ犯罪の要件を構成しないとして、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張した。そのうちコレラはますます拡大してしまった。
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