コレラ菌自飲実験とその晩年
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「マックス・フォン・ペッテンコーファー」の記事における「コレラ菌自飲実験とその晩年」の解説
スノーら上水道論者との論争に敗れたペッテンコーファーは、同1892年10月に、もう一つの論争に決着をつけるべく行動を起こした。すでに、その後の細菌学の発展に伴いさまざまな病原細菌が発見されることで、コッホとの論争でも次第に劣勢になっていたペッテンコーファーは、自らコレラ菌を飲んでも発症しないという証拠を示すことで、コッホの提唱したコレラ菌病因論を否定して自説の正しさを実証しようと試みた。 コレラ菌自飲実験は、「近代実験医学の父」とも呼ばれたペッテンコーファーらしい、綿密な実験計画に基づいて行われたものであった。実験の公正を期すために、コレラ菌は予めコッホが培養し送付したものが用いられ、発症に十分だと考えられていたよりも遥かに多く、10億個以上(軍の一個支隊を壊滅させることができると言われる)の生きた菌が存在していることを確認した上で用いられた。さらに実験に先立って重曹液を服用して胃酸を中和し、胃の殺菌作用による影響を除外するという点まで配慮された。実験は10月7日から行われ、翌日にはペッテンコーファーには何の異常も現れなかった。10月9日午後から下痢の症状が現れ、13日まで水様の便が続いた後、15日になって正常に戻った。しばしば誤解されることであるが、コレラとはあくまで激しい下痢だけではなく脱水症状を伴う疾患であり、ペッテンコーファーはコレラ菌によって激しい下痢を起こしたもののコレラは発症しなかったのである。さらに実験期間中の糞便は細菌学的な検査に回され、その中からコレラ菌が分離されることも確認された。この結果は、コッホが提唱したコレラ菌=病原説の欠陥を指摘するものとなり、ペッテンコーファーはコッホのいうコレラ菌とは、コレラとは無関係な、あるいはせいぜいコレラに伴う下痢の原因にはなるものの脱水症状には無関係なものであるとして、自説への確信を一層強めた。 しかし同時代の他の研究者によって自飲実験が追試されると、事態は当初ペッテンコーファーやコッホらが考えていたものよりも複雑であることが判明した。例えば、ペッテンコーファーの弟子であり、同様に自飲実験を志願して行ったルドルフ・エメリッヒは、コレラによる脱水症状で危篤状態に陥り、その後一命だけは取り留めた。また、20世紀初頭にイリヤ・メチニコフが行った自飲実験ではペッテンコーファー同様、下痢のみでコレラは発症しなかった。このように、同様の実験においてもその結果がまちまちであり、コレラ病因論は対立する二説の間で明確な結論が出ないまま、再び紛糾することとなった。 自飲実験が終わった後もしばらくは、依然ヨーロッパ医化学界の権威として活動したペッテンコーファーであったが、まもなく高齢ゆえに表舞台に姿を現さなくなった。そしてうつ病を発症し、1901年2月10日、ミュンヘンの自宅でピストル自殺を遂げた。遺体はミュンヘン南墓地に埋葬された。
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