コレラ事件(防疫惨殺事件)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 10:13 UTC 版)
「万人坑」の記事における「コレラ事件(防疫惨殺事件)」の解説
大同炭鉱の中国人証言者が、1942年(昭和17年)コレラが流行し、死者が続出、万人坑に捨てられたと証言している。 田辺敏雄は、撫順炭鉱の龍鳳採炭所で起きたとされる「防疫惨殺事件」は、本多ルポでは1942年の出来事としているとし、皇帝・溥儀の自伝『わが半生』も最初の事件発生は1942年と記すとする。一方で、田辺敏雄は、撫順炭鉱「防疫の思い出」はコレラ発生を1943年と記し、大同炭鉱の日本側関係者もコレラ発生は1943年に間違いない、犠牲者は埋葬したと話す。「満州日日新聞」も1943年で報ずるとし、1942年に同新聞のコレラ記事は見当たらないとする。田辺は、こうした証言におけるコレラ事件が発生したとされる年数の違いにつき、1943年のみが正しいことを前提にした上で、撫順炭鉱(満州)と大同炭鉱(華北)の中国側証言者が同じ間違いを犯しているのは偶然なのかと疑問を呈し、中国共産党の上層部の組織的な意思、関与のもと、溥儀の自伝をタネに、撫順炭鉱と大同炭鉱でのコレラ事件が捏造されたと主張している。 本多のルポである『中国の旅』では、あくまで本多が紹介された少数の証言者の体験した「防疫惨殺事件」が1942年夏の事件であったとしているだけである。本多は「防疫惨殺事件」を撫順炭鉱における防疫管理のために起こった一連の事件と規定し、また、その防疫管理を招いた原因をコレラの流行だとしているが、ルポを読む限り、その発端となるコレラの発生や全面的終了まで1942年の内の出来事と限定しているわけではない。そもそも「防疫惨殺事件」とは本多の名付けたもので、その内実は一つ一つの事件の被害者は一人、二人からせいぜい数人となる、一連の事件の総称である。本多ルポでの証言によれば、問題となる炭鉱側の防疫管理ぶりは証言者の一人が1941年秋に来たときには既に始まっていたとされる。田辺は撫順でのコレラ流行を1943年とするが、そもそも当時の衛生状態ではコレラの発生などは毎年夏には起こりうることで、撫順市街での大流行はともかく、人の密集する炭鉱住居では大小のコレラ発生はそれ以前から起こっていたことも考えられる。また、当時の日本のマスコミ報道等を見ると、1942年夏にも上海でコレラが流行し、日本の長崎・瀬戸内海などの港町でも病人が出て、東京に本格上陸することが懸念されており、さらに、1943年には従来のコレラに加えて、6月上旬には腸チフスの感染が前年の倍以上と大量に流行り始めていることが日本本土での関心の対象となっている。大同炭鉱における中国人側の万人坑証言で語られる伝染病の流行状況もこの流れと符合しており、華北・華中・華南から労務者が連れてこられたことを考えれば、むしろ中国人証言にある1942-1943年の大同炭鉱における発生状況等の方が東アジア全体での流行状況に沿っており、表向きとはまた異なった炭鉱での実情を示しているのではないかとも考えられる。
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