原因とそれを助長するもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 22:48 UTC 版)
「六月暴動」の記事における「原因とそれを助長するもの」の解説
暴動の原因には、1827年から1832年にかけて急速に深刻なものとなった経済問題があった。この時期には不作が続き、食糧事情は悪化、物価が上昇するなど、全ての階級において不満が高まっていたのである。さらに1832年春、ヨーロッパ全土を襲っていたコレラ禍がパリにも発生し、18,402人の死者を出すという惨事になった。特に貧困層は疫病で荒廃し、政府が井戸に毒を投じたとの噂まで広まった。この疫病のため、首相のカジミール・ピエール・ペリエ(フランス語版)(5月16日死去)とナポレオン傘下の将軍で自由主義派の政治家であるジャン・マクシミリアン・ラマルク(6月1日死去)の2人の著名人が亡くなった。ペリエが壮大な国葬で送られた一方、貧困層に向け同情を示し国民的な人気のあったラマルク将軍の葬儀は、反対派への強い警戒感が示されたものであった。 中間的ブルジョワジーから支持を得て誕生した七月王政政権は、左右両派からの攻撃を同時に受けるようになっていた。両者の死亡以前でも、大きな暴動が2回起きている。ひとつは1831年12月にフランス第2の都市リヨンにおいて、経済困窮を理由に発生したカヌート(絹織物工)争議であり、鎮圧には地元の治安部隊では足らず、軍隊が投入された。もうひとつは翌年2月に発生した、レジティミスト(復古主義者)一派が現王室を拉致しようとした「ルー・ド・プルーヴェールの陰謀」といわれるものである。マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが息子シャンボール伯の即位を企み、扇動したものであったが、まもなく逮捕され陰謀は失敗に終わった。以降、レジティミストの活動は武力ではなく、出版物などの言論による闘争へと変貌することとなった。
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