コナミ時代
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1981年にコナミにイラストレーターとして入社したが、デザインではなく企画の部署に回される。出世作となるアーケードゲーム『タイムパイロット』は本人の談によれば、当時の上司が企画した作品(本人曰く教習所をモチーフにしたドライブゲームとの事)を開発するフリをしながら完全に独断で作り上げたものだという。後戻りできない段階でようやく事後報告として上司に披露。報連相無しのこの行動は当然大いに怒りを買ったが、そのまま発売したところ記録的な大人気となり、上司の態度を一変させた。他に『ジャイラス』等を開発。 1983年にコナミを退職するが、本人によれば「元々10月頃発売予定だったゲームを最後にコナミを退社する予定だった」ものの、8月に夏休みを取っている間に当時同僚だった有馬俊夫(後に『魔界村』等を開発)が社長に「岡本も連れて辞める」と見得を切ったため、その煽りを食って懲戒免職になりかけた。最終的に自主退職の形にはなったものの、会社においてあった私物(書籍約300冊など)は返還されなかったという。
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コナミ時代(1990年 - 2014年)
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「五十嵐孝司」の記事における「コナミ時代(1990年 - 2014年)」の解説
1990年の大学卒業後、コナミに入社した。彼が最初に関わったプロジェクトは、教育ソフト部門でシミュレーションゲームのプログラマーだった。そのゲームは経営シミュレーションであり、開発チームは『ファイアーエムブレム』の影響を受けていたが、12ヶ月後に開発が中止された。彼はコンシューマー部門に移り、PCエンジン版『出たな!!ツインビー』の敵プログラムを手掛けた。PCエンジンSUPER CD-ROM2用恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』では、彼はプログラマーとして働きつつ、ストーリー執筆を担当した。当時交際していた女性(後に妻となる人物)もコナミの従業員で、彼女は『悪魔城ドラキュラX 血の輪廻』に携わっていた。彼女は五十嵐に『ときめきメモリアル』のストーリーの書き方をアドバイスし、五十嵐は休憩時間に『血の輪廻』をプレイしていたという。五十嵐は『ときめきメモリアル』の続編を手がけるようにと上司に言われたが、その気がないことを上司に伝え、異動を願い出た。『ときめきメモリアル』の売れ行きが好調だったため上司もそれを受け入れ、五十嵐は希望する『悪魔城ドラキュラ』の東京開発チーム(悪魔城ドラキュラ開発チームは複数あった)へと加わった。 その開発チームはスーパー32X用の『悪魔城ドラキュラ』シリーズ作の開発を始めたが、失敗に終わった32XよりもPlayStationに注力するというコナミの判断により同作の開発は中止された。次のプロジェクトはPlayStation用ゲーム『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』で、五十嵐は古川敏治と共作したシナリオとプログラムを担当した。同作の制作中も五十嵐は引き続き『ときめきメモリアル』に関わっており、『ときめきメモリアル』と『月下の夜想曲』の開発を行き来していた。同作の制作途中にはディレクターの萩原徹がプロデューサーに昇進してプロデューサーとディレクターを兼任するようにもなり、五十嵐はアシスタントディレクターに昇格している。同作への批評家からの評価は高く、後に「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルに影響を与えたが、売り上げには繋がらなかった。 『月下の夜想曲』のリリース後、2000年に発売されたPlayStation用RPG『エルダーゲート』のディレクターを務めた。シナリオを重視した大作主義のRPGは一旦中断すると再開後にプレイ意欲をなくしてしまうという五十嵐の体験から、気が向いたときにプレイでき、プレイするたびに新鮮さを感じられるようなゲームを作りたかったと語る。同作は『ファミ通』で40点中22点の評価を受けた。 その後、1993年に発売されていたX68000用ゲーム『悪魔城ドラキュラ』のPlayStationへのアレンジ移植作となる『悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ』でプロデューサーを務め、ゲームボーイアドバンスでの『悪魔城ドラキュラ』シリーズ2作目となった『キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲』ではプロデューサー兼シナリオを務めた。同作は『月下の夜想曲』のようなゲームを作ることを目指しており、、『月下の夜想曲』のキャラクターデザインを手掛けた小島文美を復帰させたこともその一環だった。五十嵐はゲームボーイアドバンス前作『悪魔城ドラキュラ サークル オブ ザ ムーン』時のゲーム機画面が暗すぎると感じており、ゲーム画面をより明るくする必要性を感じていた。 コナミ在籍中の五十嵐は、しばしばカウボーイハットを被って革製の鞭を振り回す姿で表にあらわれ、E3などのメディアイベントにもその格好で登場した。 2007年3月、ライターのウォーレン・エリスは、『悪魔城伝説』のDVDアニメの制作を五十嵐と共同で進めていることを発表した。エリスは、新たなバックストーリーの執筆を含め、同作をシリーズの時系列に合わせるために五十嵐とどのように協力したのか、プリプロ用の資料を8回も書き直すように五十嵐が求めたことを明かした何年にもわたる開発地獄を経て、同プロジェクトは2017年に『悪魔城ドラキュラ -キャッスルヴァニア-』としてネットフリックスで公開された。 2008年の東京ゲームショウで五十嵐は漆黒の闇を纏いし呪われた血族を主役に据えたPlayStation 3とXbox 360で発売を予定する新作ゲームのティザー映像を披露した。五十嵐はのちに、同プロジェクトには多くの時間と予算が費やされていたにも関わらず開発は順調ではなかったことを明かしている。並行してスペインのデベロッパーMercurySteamが五十嵐とは別で『悪魔城ドラキュラ』シリーズの新作プロトタイプを制作していたが、五十嵐はそれが自身のプロジェクトよりもよく見えたと語る。コナミは五十嵐のプロジェクトの中止を決定し、2010年にMercurySteam開発による『キャッスルヴァニア ロード オブ シャドウ』を発売している。五十嵐はその後の2D『悪魔城ドラキュラ』タイトルについての企画提案は行っていない。 2011年のXbox 360用横スクロールシューティングゲーム『オトメディウス エクセレント!』、Kinect用ゲーム『リードミーズ(英語版)』のプロデューサーを務めたほか、ニンテンドーDS用ゲーム『ヒラメキパズル マックスウェルの不思議なノート』のローカライズにも携わった。2011年末、彼はコナミのソーシャル部門に異動になった。コナミのビジネスモデルがモバイルゲーム開発にシフトしていくなか、五十嵐はコンシューマーゲームのようにプレイできるモバイルゲームを開発しようと試みたが、タイトルをリリースできなかった。五十嵐は自らのコンシューマーゲームでの経験が、ソーシャルゲームへの躍進を妨げていると感じた。2014年3月にコナミを退職した。 五十嵐は『悪魔城ドラキュラ』シリーズで一番気に入っている作品について、開発に携わったものの中では『月下の夜想曲』を挙げ、シリーズ全体では『悪魔城伝説』を挙げており、サウンドの良さと世界設定が最も好きな理由としている。ほかにはシリーズに変化をもたらした作品であるとして自分がプロデュースした『キャッスルヴァニア 〜暁月の円舞曲〜』をお気に入りに挙げている。
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