こうしゅう〔クワウシウ〕【光州】
読み方:こうしゅう
こう‐しゅう【公衆】
読み方:こうしゅう
こう‐しゅう〔‐シウ〕【口臭】
読み方:こうしゅう
口から出るいやなにおい。
こう‐しゅう〔‐シウ〕【×寇×讐】
こうしゅう〔クワウシウ〕【広州】
読み方:こうしゅう
中国広東(カントン)省の省都。珠江デルタの北端に位置する商工業・港湾都市。古来、華南最大の貿易港として栄え、アヘン戦争以後は革命運動の中心地となった。人口、行政区852万(2000)。コアンチョウ。
こう‐しゅう〔‐シウ〕【後周】
こう‐しゅう〔‐シフ〕【後集】
こう‐しゅう〔‐シウ〕【拘囚】
こうしゅう〔カウシウ〕【杭州】
こうしゅう〔カフシウ〕【甲州】
読み方:こうしゅう
山梨県北東部にある市。大菩薩峠をかかえる山岳地帯から南西に甲府盆地が広がる。ブドウ・ワインの生産が盛ん。平成17年(2005)11月、塩山(えんざん)市・勝沼町・大和(やまと)村が合併して成立。人口3.4万(2010)。
こう‐しゅう〔‐シウ〕【興収】
こう‐しゅう〔カウシフ〕【講習】
寇讎
読み方:コウシュウ(koushuu)
あだ、かたき。
交州
コウシュウ | ||
【刺史】鄧勲 / 鄧譲 / 樊演 / 張喬 / 夏方 / 朱儁 / 賈琮 / 楊扶 / 張磐 / 葛祇 / 綦毋俊 / 丁宮 / 朱符 / 載良 / / / 張津 / 頼恭 / / / 歩騭 / 呂岱 / / / 陶基 / 劉俊 / 楊稷 / 陶璜 / 吾彦 / 顧秘 / 顧参 / 顧寿 / 陶威 / 陸胤 / 虞氾 / 陶淑 / 陶綏 【領郡】南海郡 / 蒼梧郡 / 鬱林郡 / (桂林郡) / 合浦郡(珠官郡) / (高涼郡) / (朱崖郡) / (合浦北部都尉) / 交趾郡 / (新昌郡) / (武平郡) / 九真郡 / (九徳郡) / 日南郡 |
江州
コウシュウ | 県 | |
巴郡郡治である。県内の塗山に禹王と塗后の祠がある。また清水が湧き出ており、巴郡の人はその水で白粉を作るので、川の名を粉水という。白粉は都に献上され、「江州堕林粉」と呼ばれている。楊貴妃が好んだという果実茘枝の畑があり、その実が熟すたび、太守以下の官吏が木の下に集まって一緒に食す。県の北に稲田があって献上米となっている。豪族には波・鈆・母・謝・然・〓(蓋)・楊・白上官・程・常氏らがあった。中都護李厳は巴東郡永安から江州に移ったとき、江州城を周囲十六里に及ぶ巨大な城に改築する。城の裏山を開削して汶江の水を長江に引き入れようと計画したが、諸葛亮が李厳を漢中に呼び寄せたので中止となった。 【県令】 【県人】孟彪 |
浩周
コウシュウ | (?~?) | |
字は孔異。上党の人《呉主伝》。 建安年間(一九六~二二〇)に出仕して蕭の県令となり、のちに徐州刺史に昇った。左将軍于禁の護軍を兼任したが、于禁軍が潰滅したとき関羽の捕虜となり、孫権が関羽を捕らえたとき浩周もまた彼の手に渡った。浩周は極めて鄭重な礼をもって遇せられた《呉主伝》。 建安二十五年(二二〇)、曹丕が魏王に即位すると、孫権は浩周を東里袞とともに魏に帰し、へりくだった言葉で和睦を申し入れた。曹丕の下問に、東里袞が「彼を屈服させることはできますまい」と答えたのに対し、浩周は「孫権はかならずや臣従するでしょう」と答えたので、曹丕は浩周の言葉には根拠があるのだろうと思って喜んだ《呉主伝》。 その歳の冬、曹丕は漢朝からの禅譲を受けて帝位に上った。翌年十一月、孫権を呉王に封じたとき、都尉浩周を副使に立てた。浩周が「呉王がご令息を入朝させないのではないかと陛下は疑っておいででしたが、浩周が一族百人を質にかけてお約束して参りました」と告げると、孫権は「浩孔異よ、卿(あなた)は家族百人で私をかばってくれた。私は何と言えばいいのだろう」と言って襟を涙で濡らした。浩周が帰国する際にも、太子孫登を人質として魏に差し出すことを、天を指差して誓ったのだった《呉主伝》。 しかし浩周が帰国したのち、孫権はいろいろと言い訳をして、翌年八月になっても孫登を人質として差し出さなかった。曹丕ははじめ「彼は、十二月までに我が子を張昭・孫邵の子息とともに入朝させると言っている。孫権が異心を持っていない明証である」と言っていたが、結局、孫権には子供を差し出すつもりなどなかったのである《呉主伝》。 黄武元年(二二二)九月、ついに曹丕は大軍を催して呉を攻撃した。以来、曹丕は浩周を遠ざけ、生涯用いようとはしなかった《呉主伝》。 【参照】于禁 / 関羽 / 曹丕 / 孫権 / 孫邵 / 孫登 / 張昭 / 東里袞 / 漢 / 魏 / 呉 / 蕭県 / 上党郡 / 徐州 / 王 / 県令 / 護軍 / 左将軍 / 刺史 / 太子 / 都尉 / 任子(人質) / 領(兼任) |
- コウシュウのページへのリンク