カムバック:1968年 – 1972年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「カムバック:1968年 – 1972年」の解説
音楽界におけるエルヴィス・プレスリーの評価を回復させたのは、ミシン製造会社シンガーが提供した1968年のテレビ特別番組『ELVIS』と、これに続いてテネシー州メンフィスで行なわれた一連の優れた録音セッションであった。しかし、1960年代後半における音楽シーンと文化は、根本的に変化を遂げていた。「シンガー・スペシャル」のテレビ番組は、当初からこのような形になることが意図されていたわけではなかった。パーカーは、この放送が1968年12月に放送予定であることから、プレスリーがサンタの服装など、クリスマスの季節らしい衣装で登場し、クリスマス・ソングを歌うべきだと強硬に主張した(プレスリーを取り上げた歴史家たちの中には、当初の番組名が『Elvis and the Wonderful World of Christmas』であったと記す例も複数いる。)。プレスリーがかつてのヒット曲を歌うというアイデアを主張したのは、番組プロデューサーだったスティーヴ・ビンダー (Steve Binder) であり、さらにステージでかつてのバンド仲間であるスコティ・ムーアとD・J・フォンタナと共演するという趣向は、リハーサルの後にプレスリーの楽屋で、彼らがインフォーマルなジャムをやっていたことからひらめかれたものであった。プレスリーは、それまで決してパーカーに反対することはなかったが、このテレビ番組が本当にカムバックするための一世一代の機会だと悟っていた彼は、ビンダーの支持もあって、パーカーに対して番組を「ビンダーのやり方で」やると告げた。これはパーカーとプレスリーの協力関係の中で、プレスリーがパーカーに全面的に反抗した最初の出来事であった。 プレスリーとビンダーの直感は正しかった。テレビ特別番組は大反響を起こし、この番組の演奏を収録したアルバムはベストセラーになった。プレスリーの歴史家たちの見方によれば、この特別番組は、十年近くステージから離れていたプレスリーに、再びライブ・パフォーマンスをやりたいという気持ちを引き起こした。特別番組の後、パーカーは、短期間の全米ツアーや、ラスベガスにおける多数のパフォーマンスを含め、プレスリーのライブ・パフォーマンスへの復帰の準備を進めた。ラスベガスでの復帰後のショーが成功すると、パーカーはラスベガスのインターナショナル・ホテルと、ひと月におよぶプレスリーの公演を、当時としては前代未聞の週125,000ドルの報酬で行なうという契約を交わした。この当時、パーカーとプレスリーは、利益を50/50で折半する「パートナーシップ」関係に合意しており、他方でパーカーがマーチャンダイズなど音楽に直接関係しない商品をパーカーが管理していたことを考慮すると、パーカーはクライアントであるプレスリーよりも大きな利益を得ることになっていた。 プレスリーがラスベガスでのライブ・パフォーアンスで復帰に成功すると、パーカーは13年ぶりに本格的なツアーを再開する時が来たと決断した。ツアーが人気を集め、興行的にも成功して利益をもたらしたことは、プレスリーのその後の人生とキャリアにおける働き方を決定づけた。こうしたツアーにおけるパーカーの主な役回りは、必要な物資の調達を手配し、チケットが確実に売れるようにすることだった。パーカーは、いつも公演の現地にいち早く飛行機で入り、続いて現地入りするプレスリーの受け入れ準備にあたっていた。このため、プレスリーとパーカーが顔を合わせる機会はほとんどなく、時の過ぎるうちに、パーカーにとってもプレスリーに接触することは段々と難しくなっていった。一連のライブ・パフォーマンスは財政的に大きな満足のゆくものであっただけでなく、パーカーにとっては、プレスリーのRCAとのレコード契約にも都合が良いことであった。1969年から1972年までの4年間に、RCAはライブ・アルバムを3枚もリリースした。 1972年、パーカーはラスベガスにおけるプレスリーの報酬を週150,000ドルに引き上げることに成功し、年50,000ドルを「ホテル・チェーンのコンサルタント」としての顧問料として確保した。パーカーはまた、今こそプレスリーをニューヨークに再登場させるべきだと決め、6月にマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を手配した。もともと3回の公演が計画されていたが、需要の強さを受けて、パーカーは4回目の公演を追加し、プレスリーはマディソン・スクエア・ガーデンを4日続けて満員にした最初のパフォーマーとなった。この4回の公演の売上は、730,000ドルに達した。 1972年7月8日、その数ヶ月前に行なわれたリチャード・ニクソン大統領の訪中に示唆を受け、パーカーは、「世界中の大都市すべてで公演することは不可能なので」として、ハワイから世界に向けて衛星中継を行い、全世界がプレスリーを見る機会を設けるという構想を発表した。プレスリーはその活動期間を通して、1957年にカナダの数都市でコンサートを行った以外、アメリカ合衆国外でパフォーマンスをすることはなかった。1972年9月2日にラスベガスで開いた記者会見で、パーカーは、このコンサートが「アロハ・フロム・ハワイ」というタイトルで催され、1973年1月14日に放送されることを発表した。記者会見では、この「世界中に生中継される最初のエンターテイメント特別番組」を視聴するために、10億人がチャンネルを合わせるとされたが、パーカーはヨーロッパやアメリカの一部を含む多くの国々で、放送時間の関係からコンサートの生中継は見られないことを考えていなかった。ラスベガスでの記者会見から2週間後、パーカーは、エディ・シャーマン (Eddie Sherman) という『ホノルル・アドバタイザー』紙のコラムニストから手紙を受け取った。シャーマンは、ニュース報道で、このコンサートが入場無料で行なわれ、代わりに慈善活動への寄付が求められる予定であることを知った。シャーマンはパーカーに、プレスリーがクイ・リーが書いた「I'll Remember You」を録音し、その後も歌っていることを踏まえ、このハワイのソングライターが1966年に死去した後に設立されたクイ・リー・癌財団 (the Kui Lee Cancer Fund) に寄付を寄せることを提案した。これを、プレスリーの慈善活動に熱心である姿を再度宣伝する好機と見たパーカーは、この提案に飛びついた。このコンサートのライブ・アルバムは世界中で同時発売され、アメリカ合衆国のチャートで首位に立ったが、これは1964年の映画『青春カーニバル (Roustabout)』のサウンドトラック・アルバム以来のことであった。
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