カムバック:1968年 – 1972年とは? わかりやすく解説

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カムバック:1968年 – 1972年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:22 UTC 版)

トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「カムバック:1968年 – 1972年」の解説

音楽界におけるエルヴィス・プレスリー評価回復させたのは、ミシン製造会社シンガー提供した1968年テレビ特別番組ELVIS』と、これに続いてテネシー州メンフィス行なわれ一連の優れた録音セッションであった。しかし、1960年代後半における音楽シーン文化は、根本的に変化遂げていた。「シンガー・スペシャル」のテレビ番組は、当初からこのような形になることが意図されていたわけではなかった。パーカーは、この放送1968年12月放送予定であることから、プレスリーサンタ服装などクリスマス季節らしい衣装登場しクリスマス・ソングを歌うべきだと強硬に主張したプレスリー取り上げた歴史家たちの中には当初番組名が『Elvis and the Wonderful World of Christmasであったと記す例も複数いる。)。プレスリーがかつてのヒット曲を歌うというアイデア主張したのは、番組プロデューサーだったスティーヴ・ビンダー (Steve Binder) であり、さらにステージでかつてのバンド仲間であるスコティ・ムーアD・J・フォンタナ共演するという趣向は、リハーサルの後にプレスリー楽屋で、彼らがインフォーマルジャムをやっていたことからひらめかれたものであったプレスリーは、それまで決しパーカー反対することはなかったが、このテレビ番組本当にカムバックするための一世一代機会だと悟っていた彼は、ビンダーの支持もあって、パーカーに対して番組を「ビンダーのやり方で」やると告げた。これはパーカープレスリー協力関係の中で、プレスリーパーカー全面的に反抗した最初出来事であったプレスリーとビンダーの直感正しかったテレビ特別番組大反響起こし、この番組演奏収録したアルバムベストセラーになったプレスリー歴史家たちの見方によれば、この特別番組は、十年近くステージから離れていたプレスリーに、再びライブ・パフォーマンスやりたいという気持ち引き起こした特別番組の後、パーカーは、短期間全米ツアーや、ラスベガスにおける多数パフォーマンス含めプレスリーライブ・パフォーマンスへの復帰準備進めたラスベガスでの復帰後のショー成功すると、パーカーラスベガスのインターナショナル・ホテルと、ひと月におよぶプレスリー公演を、当時としては前代未聞の週125,000ドル報酬行なうという契約交わした。この当時パーカープレスリーは、利益50/50折半するパートナーシップ」関係に合意しており、他方パーカーマーチャンダイズなど音楽直接関係しない商品パーカー管理していたことを考慮すると、パーカークライアントであるプレスリーよりも大きな利益を得ることになっていた。 プレスリーラスベガスでのライブ・パフォーアンスで復帰成功すると、パーカー13年ぶりに本格的なツアー再開する時が来たと決断したツアー人気集め興行的に成功して利益もたらしたことは、プレスリーその後の人生とキャリアにおける働き方決定づけた。こうしたツアーにおけるパーカー主な役回りは、必要な物資の調達手配しチケット確実に売れるようにすることだった。パーカーは、いつも公演現地いち早く飛行機入り続いて現地入りするプレスリー受け入れ準備にあたっていた。このためプレスリーパーカー顔を合わせる機会はほとんどなく、時の過ぎるうちに、パーカーにとってもプレスリー接触することは段々と難しくなっていった一連のライブ・パフォーマンス財政的に大きな満足のゆくものであっただけでなく、パーカーにとっては、プレスリーRCAとのレコード契約にも都合が良いことであった1969年から1972年まで4年間に、RCAライブ・アルバム3枚リリースした1972年パーカーラスベガスにおけるプレスリー報酬を週150,000ドル引き上げることに成功し、年50,000ドルを「ホテル・チェーンのコンサルタントとしての顧問料として確保したパーカーまた、今こそプレスリーニューヨーク再登場させるべきだと決め6月マディソン・スクエア・ガーデンでの公演手配した。もともと3回公演計画されていたが、需要強さ受けてパーカー4回目公演追加しプレスリーマディソン・スクエア・ガーデン4日続けて満員にした最初パフォーマーとなった。この4回の公演売上は、730,000ドル達した1972年7月8日、その数ヶ月前に行なわれリチャード・ニクソン大統領訪中示唆を受け、パーカーは、「世界中大都市すべてで公演することは不可能なので」として、ハワイから世界向けて衛星中継行い全世界プレスリーを見る機会設けるという構想発表したプレスリーその活動期間を通して1957年カナダの数都市コンサート行った以外、アメリカ合衆国外パフォーマンスをすることはなかった。1972年9月2日ラスベガス開いた記者会見で、パーカーは、このコンサートが「アロハ・フロム・ハワイ」というタイトル催され1973年1月14日放送されることを発表した記者会見では、この「世界中生中継される最初エンターテイメント特別番組」を視聴するために、10億人がチャンネル合わせるとされたが、パーカーヨーロッパアメリカ一部を含む多く国々で、放送時間の関係からコンサート生中継見られないことを考えていなかった。ラスベガスでの記者会見から2週間後、パーカーは、エディ・シャーマン (Eddie Sherman) という『ホノルル・アドバタイザー』紙のコラムニストから手紙受け取ったシャーマンは、ニュース報道で、このコンサート入場無料行なわれ代わりに慈善活動への寄付求められる予定であることを知ったシャーマンパーカーに、プレスリークイ・リー書いたI'll Remember You」を録音しその後歌っていることを踏まえ、このハワイソングライター1966年死去した後に設立されクイ・リー・癌財団 (the Kui Lee Cancer Fund) に寄付寄せることを提案した。これを、プレスリー慈善活動に熱心である姿を再度宣伝する好機見たパーカーは、この提案飛びついた。このコンサートライブ・アルバム世界中で同時発売され、アメリカ合衆国チャート首位立ったが、これは1964年の映画青春カーニバル (Roustabout)』のサウンドトラック・アルバム以来のことであった

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