カムバックと記録の争い (2002年 - 2011年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 04:19 UTC 版)
「FCポリテフニカ・ティミショアラ」の記事における「カムバックと記録の争い (2002年 - 2011年)」の解説
2002年、AEKブカレストは初のリーガ1昇格を果たした。AEKのオーナーアントン・ドボシュ (Anton Doboş) は本拠地をティミショアラに移転、クラブ名をポリテフニカ・AEK・ティミショアラ (Politehnica AEK Timişoara) に改称、地元当局やポリテフニカファンの支持を受けて2002-03シーズンに臨んだが、16チーム中14位に終わり降格すると思われた、しかし2003年にアストラ・プロイェシュティがペトロルル・プロイェシュティに吸収される形で合併、グロリア・ブザウとのプレーオフの末にリーガ1に残留した。2003-04シーズンはチームとしてより成熟し、前シーズンの反省から学んだ結果、2シーズン目で8位という立派な成績を残した。 2004-05シーズンからは、FCUポリテフニカ・ティミショアラ (FCU Politehnica Timișoara) に改称した。前半戦は苦しみ、ウィンターブレーク前には降格もちらついたが、新スポンサーである石油精製会社のBKPの登場がチームを救った。ルーマニア代表のコスミン・コントラをアトレティコ・マドリードからレンタルで獲得したり、ヴィオレル・モルドヴァンをセルヴェットFCから獲得した結果、6位まで順位が上昇した。 2005年のプレシーズンにはイタリアの強豪ユヴェントスと親善試合を行い、2-2の引き分けに持ち込んだ。2005-06シーズンは8位だった。2006-07シーズンは無難な滑り出しを見せ、シーズンのほとんどの期間を5位以内で過ごした。しかしフロントはこの結果に不満で、4人以上の監督がこのシーズンに指揮を執った。開幕時の監督はソリン・クルツだった。彼は1990-91シーズンにウニヴェルシタテア・クラヨーヴァでリーガ1を制したが、それはブカレスト勢(ステアウア・ブカレスト、ディナモ・ブカレスト、ラピド・ブカレスト)以外が優勝した最後のシーズンだった。ステアウアからやってきたステファン・グリゴリエ、ディナモからやってきたダン・アレクサと選手補強にも成功したが、監督はめまぐるしく交代した。 2007-08シーズンは好調で、2007年末には3位につけていた。勝ち点32を獲得し、1試合平均の得点は2点を超えていた。しかし、守備陣は安定せず、前年度を下回りチーム最大の欠点のように思えた。冬の移籍期間にバラージュ・ボルベリとミロシュ・ブレジンスキーのふたりのスロバキア代表の守備的な選手を獲得したが、6位に終わった。クパ・ロムニエイ決勝ではCFRクルジュに敗れたが、準優勝したことでUEFAカップの出場権を獲得した。57得点はクラブ創設から6シーズンで最多だった。さらにいえば、ブカレストの3強にシーズンを通して負けがなかったチームは過去30年間で初めてだった。 2008年からは、スポーツ仲裁裁判所の仲裁判断に従いFCティミショアラ (Fotbal Club Timişoara) に改称した。 また2002年以前のチームカラーと記録については、ポリテフニカ・ティミショアラのオーナーであったクラウディオ・ザンボン (Claudio Zambon) を支持したため、FCUはチームカラーと記録を失うことになった 。 2008-09シーズンはUEFAカップにはじめて出場したが、1回戦でパルチザンに敗れた。しかしリーグ戦ではウニレア・ウルジチェニと最後まで優勝を争い、クラブ最高位の2位になった。2009-10シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦では前年度UEFAカップ覇者のシャフタール・ドネツクと対戦した。この格上との試合をアウェーゴール差で逃げ切り、シュトゥットガルトとの本戦プレーオフに進出した。守護神コステル・パンティリモンの好守などで健闘したが、2試合合計0-2で敗れ去った。リーグ戦では5位と不本意な結果だった。 2010-11シーズン、監督交代がありながらもヤニス・ズィクの活躍でリーグ戦2位となる。シーズン終了後に財政難が発覚し、リーガ2 (2部リーグ) 降格処分となり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権は3位のFCヴァスルイへ移った。
※この「カムバックと記録の争い (2002年 - 2011年)」の解説は、「FCポリテフニカ・ティミショアラ」の解説の一部です。
「カムバックと記録の争い (2002年 - 2011年)」を含む「FCポリテフニカ・ティミショアラ」の記事については、「FCポリテフニカ・ティミショアラ」の概要を参照ください。
- カムバックと記録の争いのページへのリンク