アラーウッディーン・ムハンマドの逃走とは? わかりやすく解説

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アラーウッディーン・ムハンマドの逃走

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)

モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「アラーウッディーン・ムハンマドの逃走」の解説

モンゴル軍マー・ワラー・アンナフル侵入したことを知ったアラーウッディーンは居城サマルカンド放棄してナフシャブ(カルシ)に逃亡し通過先の住民各自モンゴル軍攻撃から身を守るように告げたホラズム熟練した軍人からはアム川防衛戦張ってイラン守備全力傾けるべきだという意見出されたが、アラーウッディーンはガズナ退却する意見採用するバルフ到着したアラーウッディーンは宰相のアハマド・ウル・ムルクに出会い彼の進言に従ってイラーク・アジャミー(イラン高原)への移動決定するこうしたアラーウッディーンの退却は、専守防衛策からモンゴル軍アム川の南、あるいは西に誘導して撃破するゲリラ戦への転換意図したものだとも言われている。王子ジャラールッディーン退却反対してモンゴル軍抗戦することを主張したが、アラーウッディーンはジャラールッディーン意見を容れず、彼を連れて逃走した1220年4月16日にアラーウッディーンはニーシャープール到着しモンゴル軍アム川を渡るのは当分先になると考えて町に滞在したが、到着から3週間後にモンゴル軍イラン東部ホラーサーン地方進軍したことを知ると、狩猟に出るという口実設けて少数の供を従えて町を脱出した。 アラーウッディーンの追撃向かった部隊アム川渡りホラーサーン地方侵入するホラーサーン地方主要な都市であるバルフ使節派遣してモンゴル軍降伏申し出るが、モンゴル軍挑発したザーヴァの町は破壊虐殺晒されニーシャープール城外通過するモンゴル軍食糧供給した1220年6月ジェベニーシャープール降伏勧告する書状送りマーザンダラーン地方経てアラーウッディーンを追跡するスブタイはクーミス地方通過する間に進路存在する都市略奪行いテヘラン郊外レイジェベスブタイ合流しレイでもモンゴル軍による住民虐殺拉致が行われた。 アラーウッディーンはイラン逃走するにあたってホラズム地方支配するテルケン・ハトゥンにマーザンダラーンへの避難勧告するが、テルケン・ハトゥンの元にホラーサーン地方領有引き換え内通促すモンゴル使者送られていた。テルケン・ハトゥンはチンギス提案返答せず、アラーウッディーンから退却求められると、ホラズム投獄されていた亡国王侯処刑し財宝王妃王子伴って逃走した。テルケン・ハトゥンはマーザンダラーンのイラール城砦捕虜となり、アラーウッディーンの子供は処刑され、妃と財宝モンゴル軍の手落ちたニーシャープール発ったアラーウッディーンはガズウィーンからルリスターン地方逃れイラン高原拠点兵力回復を図るが、レイ略奪受けた情報伝えられる将兵逃散した。マーザンダラーン逃れたアラーウッディーンは現地貴族勧め従い胸膜炎罹った体でカスピ海上のアバスクン島(英語版)に避難する死期が近いことを悟ったアラーウッディーンは王子ジャラールッディーン、ウーズラーグ・シャー、アーク・シャーをアバスクン島に呼び寄せジャラールッディーン後継者指名した後、1220年12月病没した。 アラーウッディーンの死後、3人の王子はテルケン・ハトゥンが去った後に無政府状態陥ったホラズム地方帰国し歓迎受けた間もなくカンクリ族の将校ジャラールッディーン殺害してウーズラーグ・シャーを王位就けよう企て、彼らの企み察知したジャラールッディーン1221年2月ティムール・メリクとともにホラーサーン地方移動したモンゴル軍ホラズム地方侵入したことを知ったウーズラーグ・シャーとアーク・シャーもホラーサーン地方への逃走試みるが、モンゴル軍追撃受けて殺害される王子たち脱出した後、ホラズム・シャー朝首都ウルゲンチモンゴル軍包囲されジョチ降伏勧告拒んだウルゲンチ攻撃晒される包囲指揮執るジョチチャガタイの間に起きた不和モンゴル側の作戦妨げて包囲は6か月に及び、ジョチチャガタイ多く兵士失ったことを知らされチンギスオゴデイホラズム派遣したオゴデイ仲裁によってジョチチャガタイは矛を収め軍紀回復したモンゴル軍ウルゲンチへの総攻撃開始した市街地侵入したモンゴル軍道路を守るホラズム軍の頑強な抵抗を受け、女性子供ウルゲンチ防衛加わっていたが、攻撃から1週間後追い詰められ住民降伏申し出た1221年4月ウルゲンチ陥落ジョチ命令によって100,000人に及ぶ工芸家職人モンゴル送られ市外に連れ出されウルゲンチ住民モンゴル軍によって虐殺される。モンゴル軍アム川流れ堰き止めていたダム破壊し溢れ出た河水によってウルゲンチ建物破壊され、町に隠れてモンゴル兵の殺戮免れた住民溺死した伝えられている。14世紀イルハン朝歴史家ラシードゥッディーンウルゲンチ付近に死者遺骨積み上げられた丘がいくつも残されている事を記している。

※この「アラーウッディーン・ムハンマドの逃走」の解説は、「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の解説の一部です。
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