アラーウッディーン・ムハンマドの逃走
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「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「アラーウッディーン・ムハンマドの逃走」の解説
モンゴル軍がマー・ワラー・アンナフルに侵入したことを知ったアラーウッディーンは居城のサマルカンドを放棄してナフシャブ(カルシ)に逃亡し、通過先の住民に各自でモンゴル軍の攻撃から身を守るように告げたホラズムの熟練した軍人からはアム川に防衛戦を張ってイランの守備に全力を傾けるべきだという意見が出されたが、アラーウッディーンはガズナに退却する意見を採用する。バルフに到着したアラーウッディーンは宰相のアハマド・ウル・ムルクに出会い、彼の進言に従ってイラーク・アジャミー(イラン高原)への移動を決定する。こうしたアラーウッディーンの退却は、専守防衛策からモンゴル軍をアム川の南、あるいは西に誘導して撃破するゲリラ戦への転換を意図したものだとも言われている。王子ジャラールッディーンは退却に反対してモンゴル軍に抗戦することを主張したが、アラーウッディーンはジャラールッディーンの意見を容れず、彼を連れて逃走した。1220年4月16日にアラーウッディーンはニーシャープールに到着し、モンゴル軍がアム川を渡るのは当分先になると考えて町に滞在したが、到着から3週間後にモンゴル軍はイラン東部のホラーサーン地方に進軍したことを知ると、狩猟に出るという口実を設けて少数の供を従えて町を脱出した。 アラーウッディーンの追撃に向かった部隊はアム川を渡り、ホラーサーン地方に侵入する。ホラーサーン地方の主要な都市であるバルフは使節を派遣してモンゴル軍に降伏を申し出るが、モンゴル軍を挑発したザーヴァの町は破壊・虐殺に晒され、ニーシャープールは城外を通過するモンゴル軍に食糧を供給した。1220年6月にジェベはニーシャープールに降伏を勧告する書状を送り、マーザンダラーン地方を経てアラーウッディーンを追跡する。スブタイはクーミス地方を通過する間に進路に存在する都市で略奪を行い、テヘラン郊外のレイでジェベとスブタイは合流し、レイでもモンゴル軍による住民の虐殺と拉致が行われた。 アラーウッディーンはイランに逃走するにあたってホラズム地方を支配するテルケン・ハトゥンにマーザンダラーンへの避難を勧告するが、テルケン・ハトゥンの元にはホラーサーン地方の領有と引き換えに内通を促すモンゴルの使者が送られていた。テルケン・ハトゥンはチンギスの提案に返答せず、アラーウッディーンから退却を求められると、ホラズムに投獄されていた亡国の王侯を処刑し、財宝と王妃・王子を伴って逃走した。テルケン・ハトゥンはマーザンダラーンのイラール城砦で捕虜となり、アラーウッディーンの子供は処刑され、妃と財宝はモンゴル軍の手に落ちた。 ニーシャープールを発ったアラーウッディーンはガズウィーンからルリスターン地方に逃れ、イラン高原を拠点に兵力の回復を図るが、レイが略奪を受けた情報が伝えられると将兵は逃散した。マーザンダラーンに逃れたアラーウッディーンは現地の貴族の勧めに従い、胸膜炎に罹った体でカスピ海上のアバスクン島(英語版)に避難する。死期が近いことを悟ったアラーウッディーンは王子のジャラールッディーン、ウーズラーグ・シャー、アーク・シャーをアバスクン島に呼び寄せ、ジャラールッディーンを後継者に指名した後、1220年12月に病没した。 アラーウッディーンの死後、3人の王子はテルケン・ハトゥンが去った後に無政府状態に陥ったホラズム地方に帰国し、歓迎を受けた。間もなくカンクリ族の将校はジャラールッディーンを殺害してウーズラーグ・シャーを王位に就けようと企て、彼らの企みを察知したジャラールッディーンは1221年2月にティムール・メリクとともにホラーサーン地方に移動した。モンゴル軍がホラズム地方に侵入したことを知ったウーズラーグ・シャーとアーク・シャーもホラーサーン地方への逃走を試みるが、モンゴル軍の追撃を受けて殺害される。王子たちが脱出した後、ホラズム・シャー朝の首都ウルゲンチはモンゴル軍に包囲され、ジョチの降伏勧告を拒んだウルゲンチは攻撃に晒される。包囲の指揮を執るジョチとチャガタイの間に起きた不和はモンゴル側の作戦を妨げて包囲は6か月に及び、ジョチとチャガタイが多くの兵士を失ったことを知らされたチンギスはオゴデイをホラズムに派遣した。オゴデイの仲裁によってジョチとチャガタイは矛を収め、軍紀を回復したモンゴル軍はウルゲンチへの総攻撃を開始した。市街地に侵入したモンゴル軍は道路を守るホラズム軍の頑強な抵抗を受け、女性と子供もウルゲンチの防衛に加わっていたが、攻撃から1週間後に追い詰められた住民は降伏を申し出た。1221年4月にウルゲンチは陥落、ジョチの命令によって100,000人に及ぶ工芸家や職人がモンゴルに送られ、市外に連れ出されたウルゲンチの住民はモンゴル軍によって虐殺される。モンゴル軍はアム川の流れを堰き止めていたダムを破壊し、溢れ出た河水によってウルゲンチの建物は破壊され、町に隠れてモンゴル兵の殺戮を免れた住民は溺死したと伝えられている。14世紀のイルハン朝の歴史家ラシードゥッディーンはウルゲンチ付近に死者の遺骨が積み上げられた丘がいくつも残されている事を記している。
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