『新羅古記』大祚栄「高麗ノ旧将」論争
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「渤海 (国)」の記事における「『新羅古記』大祚栄「高麗ノ旧将」論争」の解説
一然は『三国遺事』のなかで、逸文の『新羅古記』を引用して大祚栄を「高麗ノ旧将」としている。また、李承休(朝鮮語版)の『帝王韻紀(中国語版)』にも「前麗ノ旧将大祚栄」とある。韓国ではこれを根拠にして、大祚栄は高句麗の武将だったから高句麗人であるという主張がある。 新羅古記云、高麗舊將祚榮姓大氏、聚殘兵。立國於大伯山南、國號渤海。高句麗の武将であった大祚栄が、残兵を集めて大伯山の南方に国を建て、渤海と号した。 — 三国遺事、巻一・靺鞨[一作勿吉]渤海 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國遺事/卷第一#樂浪國 前麗旧将大祚栄、得拠太白山南城。今南柵城也。五代史曰、渤海本粟靺鞨、居営州東。前麗ノ旧将大祚栄(中略)五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ。 — 李承休、帝王韻紀、巻下 韓国の渤海研究者の渤海帰属問題の核心は、建国者大祚栄が高句麗の武将出身で、日本に派遣された渤海使が自らを高句麗継承国であると自称した事実を挙げている。 韓国の歴史教科書「高校国史」は、「7世紀末に至り、唐の地方に対する統制力が弱まった時、高句麗の武将出身の大祚栄を中心とした高句麗遺民と靺鞨集団は、戦争の被害をほとんど受けなかった満州東部地域に移動して、吉林省敦化市で渤海を建国した」と記述している。 전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、以下のように述べている。 新羅支配層が外勢(唐)を引き込んで、高句麗と百済を滅亡させた。高句麗領土の北部は唐の支配下に置かれた。新羅は朝鮮半島の大同江以南のみ支配しただけだ。高句麗の故地には、高句麗遺民が靺鞨族と一緒に高句麗の武将である大祚栄の指揮のもと渤海国(698〜926年)を立てた。...したがって新羅は統一国家ではなく、国土の南部に輝いた朝鮮の地域王朝に過ぎず、私たちの歴史の最初の統一国家は高麗ということが科学的に明らかになった。 — 전영률 李健才(吉林省文物考古研究所)は、仮に『新羅古記』の内容が正しく、大祚栄が「高麗舊將」だったとしても、漢人ではない高句麗人である高仙芝や百済人である黒歯常之が唐から官職を受けた唐の武将であったように、大祚栄が高句麗の武将であったとしても高句麗人という証拠にはならないと指摘し、あわせて靺鞨人でありながら高句麗の武将であった生偕のような人物がいたことも指摘している。 石井正敏は、「『新羅古記』は現在佚書となっており、その成立をはじめ、史料的性格も不明である。したがって、本文に『高麗ノ旧将』とあるのは、例えば『旧唐書』に、『祚栄驍勇ニシテ善ク兵ヲ用』いたと伝えられていることなどに基づく表現かとも憶測される。その場合、当然本書の成立は高麗朝に入ってからのこととなり、ここに新羅時代の記録とみなすことは不適当であろう」、「『三国史記』渤海関係記事不採用の一つの理由と推測される『渤海は靺鞨人の国である』」という意識が、『三国遺事』にも表れているように思われる。そしてこうした理解は『帝王韻紀(中国語版)』にもみえる。李承休(朝鮮語版)著『帝王韻紀(中国語版)』は『三国遺事』の成立とほぼ同時代の一二八七年に編纂されている。上下二巻より成り、中国・朝鮮歴代王朝の事蹟を七言詩を以て叙述している。(中略)このように、『前麗ノ旧将大祚栄』としながらも、分註に『五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ』と記しているのである」と述べている。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「高句麗の歴史をもっと深く観察する必要があります。領土内には靺鞨族があちこちに住んでいました。西北には契丹族も住んでいました。高句麗は粛慎も征伐しました。鴨緑江と松花江一帯を取り囲む大陸内に様々な種族が住んでいたのです。したがって、高句麗人が王を輩出したときは高句麗となり、靺鞨族が王を輩出したときは靺鞨または渤海、契丹が王を輩出すると遼、女真族が建国した国は金となります」「朱蒙が国を建国したときには既に鴨緑江の中流·上流地域には『靺鞨』と記録された種族がいた。朱蒙はそれらを制圧し、それらの上に君臨したのです。高句麗の建国から滅亡するまで、高句麗の地には高句麗人と靺鞨族が共存していたのです。高句麗は新羅に侵攻するとき、靺鞨軍を動員します。唐太宗が高句麗の遼東城を攻撃したときも、高句麗は靺鞨軍を派兵して対抗させます。ただし、高句麗人と靺鞨族は融合して住んでいたのではなく、互いに居住地域を異にしていたのです。したがって、靺鞨軍を指揮する者は、当然靺鞨族でしょう。大祚栄は高句麗の武将とはいえ、靺鞨族出身で靺鞨軍を指揮したとみています」と述べている。 Kim Aleksandr Alekseevich(ロシア語: Ким Александр Алексеевич)は、大祚栄の生年は不明だが、719年に死亡している。一方、高句麗は668年に滅亡しており、大祚栄の年齢と高句麗の滅亡時期を鑑みると、若者は武将の地位を授かることはないため、大祚栄が高句麗の武将だった可能性は低いとみている。
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