『新葉和歌集』完成まで
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歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。 生年は応長元年(1311年)。かつて、石田吉貞が頓阿『草庵集』・『公卿補任』・『新葉和歌集』序などの記述を組み合わせて、正和元年(1312年)とする説を唱えていた。しかし、平田俊春が教王護国寺本『天台座主記』に元徳2年(1330年)の座主補任時に数え20歳とあるのを発見して、逆算して応長元年(1311年)であることを示した。 妙法院に入り正中2年(1325年)妙法院門跡を継承。続いて元徳2年(1330年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。 父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。延元3年/暦応元年(1338年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。 興国元年/暦応3年(1340年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現・新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現・富山県射水市)などに滞在した後、興国5年/康永3年(1344年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。宗良親王はこの地を文中2年/応安6年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。 正平6年/観応2年(1351年)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には、新田義興や新田義宗とともに鎌倉を占領する。翌正平7年/文和元年(1352年)には後村上天皇から征夷大将軍に任じられたが、武蔵野合戦に敗れたことで、結局鎌倉を占領し続けることはできず、越後で再起を図るも振るわず、ふたたび大河原の地に戻る。同年、北畠顕能、楠木正儀ら南朝勢が入京し、北朝の光厳天皇らを監視下に置くと、後村上天皇の帰京を支援するため信濃の宮方勢力を結集し出立しようとしたが(『太平記』)、足利直義が京都を回復し、実現しなかった。正平10年/文和4年(1355年)諏訪氏(諏訪直頼)や諏訪神党・仁科氏などを結集し、北朝方の信濃守護小笠原長基と桔梗ヶ原で決戦に及ぶが敗れて、有力氏族の離反により南朝の勢力は大幅に低下してしまう。 なお、桔梗ヶ原の戦いに関しては、諏訪大社権祝の家系である矢島氏の「矢島文書」など極少数の資料にしか記述がなく、確定された事実ではない。ただ、当時の基本資料である園太暦には「信濃での戦乱」に関する記述があり、この時期に「都にまで伝わるぐらいの規模の戦い(または戦乱)」があった事は確実とされる。またその後の南朝方(直義派を含む)の活動が停滞・沈静化するなどの傍証から、その戦いが南朝方の敗北であったこともほぼ確実とされている。 大河原の地でなおも信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが、正平24年/応安2年(1369年)には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、文中3年/応安7年(1374年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻った。この頃から南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始していたが、再び出家している。宗良親王の編集していた和歌集は当初は私的なものであったが、長慶天皇は勅撰集に准ずるように命じた。弘和元年/永徳元年(1381年)に完成した『新葉和歌集』である。
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