「枢軸時代」の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:32 UTC 版)
ヤスパースが「枢軸時代」を提唱したことの背景には、西欧中心史観からの脱却の意図があった。ヤスパースは、「アウグスチヌスからヘーゲルに至る宏壮な作品に示されている通り」、西洋においては歴史哲学はキリスト教に基礎を置いていることを指摘し、「ヘーゲルでさえ、あらゆる歴史はキリストへおもむき、そしてキリストから由来する、といったのである」と述べている。しかし、キリスト教信仰は、信仰のひとつではあるものの決して人類全体の信仰とは呼べないとして、全世界的な観点の導入を主張し、世界史の基軸となる年代としては、西洋と東洋の区別なく、すべての人間がそこに自らの精神的故郷を見いだすような時代を設定しなければならないとした。それが、「枢軸時代」である。 その輪郭は上述したとおりであるが、そこにおいてヤスパースは「神話時代は、その安らぎと自明性とともに終焉した」と述べ、新しく到来した時代における非神話性を指摘し、そこでは種々の「基本的範疇」が生まれて「世界宗教の萌芽」が形成され、また、「普遍的なものに迫る歩み」がおこなわれたとしている。それは、いわば「精神化」と呼べるような「人間存在の全面的変革」であり、はじめて哲学者と呼べるような人びとが現れて「人間は敢然と、自己に拠って個人として独立した」としている。 そしてまた、各地の隠者、遍歴思想家、禁欲的な行者、預言者など、それぞれ信仰・思想内容あるいは内的態度において大きく異なっているにもかかわらず、人間は世界に対して内面的に対峙し、存在について、主観と客観について、肉体について、および解脱と救済について思索を開始するようになったことを指摘し、後世になって「理性」や「人格」などと称せられた範疇の多くもまた、この時代に発見されたと主張している。 そして、ヤスパースは、このようにして生まれた世界には、ある種の「社会学的状態」が対応していると論じている。 それによれば、中国、インド、西洋ともに前代に比して飛躍的な繁栄がみられ、力や富の発動がいちじるしく展開し、小国や独立都市において人びとの生活が営まれ(近東におけるアケメネス朝征服地ですら、ある程度の自立性が維持された)、そして、それぞれ世界では、その内部における相互交流の結果「精神化」の動きが広められ、思想家たちは、中国においても、ギリシャにおいても、インドにおいても、しばしば、より精神生活に恵まれた地を希求して遍歴した、としている。 ただしヤスパースは、この時期は決して上昇一辺倒の発展だけがみられたのではなく、破壊と新生とが同時に進められた時代でもあって、人びとはここにおける破局と没落を眼のあたりにしながら、知識や教育、あるいは改革によって、これらの困難を克服しようと努めたとしており、そのいっぽうで、「孔子が衛公に用いられなかったことと、プラトンがシラクサで志を得なかったこと、次代の政治家を養成した孔子の学校と、同じことが行われたプラトンのアカデミア」との間の並行関係、類似関係を指摘している。 枢軸時代における創造的精神による思惟ないし実践の可能性は、西洋、インド、中国のそれぞれにおいて必ずしも共有の財産とはならず、ほんのひとにぎりの人びとによって受けつがれたにすぎなかった。3文化圏ではいずれも「教義の固定化と水平化」が起こり、一方では、小国やポリスが分立することにともなう無秩序の状態から、傑出した個性による征服事業によって、すべてを支配する大帝国がほぼ同時期に生まれた。中国における秦朝、インドのマウリヤ朝、西洋から中近東にかけてのアレクサンドロス帝国およびそれにつらなるディアドコイによるヘレニズム期の諸帝国がそれである。 しかし、漢においては儒教が国教に定められ、アショーカ王は仏教の再興に力を尽くし、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)は意識してヘレニック的(ギリシャ・ローマ的)な教養に重きを置いた。これらはいずれも「枢軸時代」の産物であった。 そこでは、枢軸時代の思想は選択されたうえで帝国の統一保持のための原理として作用した。これら大帝国は比較的長くつづいたもののやがて衰亡し、その後の歴史は諸王朝の交代と再編の歴史となってゆく。ただし、枢軸時代が人間のあらゆる行為に新たな問題意識と意味づけをあたえた緊張は、それ以後も長くつづくこととなった。
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