江戸 江戸の概要

江戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 23:52 UTC 版)

江戸図屏風に見る、初期の江戸
弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図
1853年の青山通り宮益坂上(左)~青山2丁目(右)、麻布長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。

平安時代後期に東京湾日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。

徳川家康1590年に入府し、1603年慶長8年)から1868年慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。

概要

江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。

徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、旗本御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され[2]1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。

木造家屋が密集しており、火事が頻発した(江戸の火事)。1657年3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会であった[3]。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#生活と文化

江戸の行政・司法(および警察)

最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。

だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所[注釈 1]、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。

町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。

幕末の江戸と明治初頭の東京

徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。

1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。

明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。

歴史

平安時代

江戸」という地名は平安時代後期に生まれたと考えられている。

隅田川東京湾へ注ぐ河口部からは南西に位置する平川の河口付近(和田倉門付近で日比谷入江[4]に注いでいた)を指す小地名として生まれた[5]。概ね神田山(後の駿河台)の裾部から南へ江戸前島(後の江戸郷前島村)まで指す。

地名の由来は、は川あるいは入江とすると、は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注釈 2][6]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸亀戸奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[5]もある。

平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』には、「江戸」という地名の記載は無くまだ発生していなかったと考えられる。地名の発生は、その後の平安時代後期と考えられ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見である。

なお『和名類聚抄』記載の郷名として、武蔵国豊島郡に「湯島郷」(現在の文京区湯島)・「日頭郷」(同区小日向)があり、どちらかの郷内と考えられる。また平川(および日比谷入江)を挟んで西に隣接する荏原郡「桜田郷」が記載されている(千代田区霞が関の旧称である桜田に名が残り、太田道灌以降の江戸城が平川河口を見下ろす麹町台地東端に建てられた)。

律令時代東海道は、この地を通っていた。武蔵国で多摩川を渡り荏原郡へ入り、東京湾の海岸沿いを品川を経て北上し桜田郷に入り、日比谷入江の北端に注ぐ平川の河口部にかかる高橋(現在の大手門橋もしくは平川橋の位置と推測される)を東へ渡り豊島郡(の後の江戸郷)へ入り、神田、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草と進み、隅田川を渡り下総国へ入り、常陸国へ至った。この平川沿いには早くから村ができていたようである[7]

江戸氏

平安時代後期の12世紀に、秩父氏の一族が、武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに進出し、江戸の地に居館を構えた(江戸重継[8]

江戸重継はこの地名を名乗りとした(江戸太郎を称した)[5]。その後の江戸氏の勢力伸長に伴い、この地は豊島郡江戸郷として認識されるようになった。

江戸重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に帰属し鎌倉幕府御家人となった。

鎌倉時代

弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状[9]には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の神田付近と推定されている[5]

この頃の鎌倉から常陸国(さらに北上し奥州)へ向かう街道(鎌倉街道)は、律令時代東海道と同じ経路だった。

平川は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている[10]。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村および平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。

また、桜田郷は元々荏原郡に属したが、隣接する江戸郷と同じ豊島郡に属すると認識されるようになり、後世の文書記録から裏付けられる。両郡が一体として認識されるようになった原因は[5]、江戸氏が勢力下に入れたことが大きいと推測される。

室町時代

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方につくなどしたが、室町時代に次第に衰え、江戸郷(および桜田郷)を去り、戦国末期には多摩郡喜多見で活動している。

応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・鵜の木丸子や隅田川下流域の金杉石浜牛島、江戸郷の国府方柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。

応永30年(1423年)には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしており、文書記録に残る。

太田道灌
太田道灌

江戸郷(および桜田郷)から江戸氏が去った跡には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、桜田郷の麹町台地東端に江戸城を築いた。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代も平川日比谷入江へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、浅草湊品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。これらの湊は利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。

太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された[11]吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九宗祇宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている[12]

道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦い後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている[13]。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区隅田川以西・以南および墨田区川崎市多摩地区の各々一部まで含まれている。

  • 従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌およびその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方[6]が登場するようになった。また、『吾妻鑑』における源頼朝入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる[14]。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある[15]。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている[12]

徳川時代

徳川家康

1590年後北条氏小田原征伐豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた[16]。同年の旧暦8月1日八朔[17]、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、駿河台神田山を削り、日比谷入江を埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

家康が1600年関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は急速に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。)

愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:フェリーチェ・ベアト 1865-1866頃

1657年明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸の人口


  1. ^ ただし御三卿屋敷並びに抱屋敷の分を除いた
  2. ^ この場合「江戸湊」は語源が忘れられた後に出来た重言とされる。
  1. ^ 外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり
  2. ^ 『慶長記』
  3. ^ 石川英輔『大江戸リサイクル事情』 講談社 1997年
  4. ^ 日比谷入江は後の江戸城の間近まで入り込んでいた。
  5. ^ a b c d e 山田邦明「古代・中世の江戸」(初出:藤田覚・大岡聡 編『街道の日本史20 江戸』(吉川弘文館、2003年) ISBN 978-4-642-06220-6 P31-55./所収:山田『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年) ISBN 978-4-88621-681-6
  6. ^ a b 岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年
  7. ^ 内藤昌『江戸の町』(上)p.6-7
  8. ^ 山田邦明「古代・中世の江戸」では、桜田は本来は江戸(平川流域地域)の一部ではなく、江戸氏の勢力拡大や太田道灌の江戸城築城に伴う「江戸」の拡大よって本来属していた荏原郡から切り離されて豊島郡江戸の一部になったとしている。また、山田は江戸氏の館も後の江戸城ではなく、平川流域の現在の水道橋付近にあったとする説を提示している。
  9. ^ 「深江文書」
  10. ^ 岡野友彦「「静勝軒寄題詩序」再考」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館、2014年
  11. ^ 内藤昌『江戸の町(上)』p8-9。
  12. ^ a b 齋藤慎一『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)
  13. ^ 佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』塙書房、2006年(1992年発表)
  14. ^ 平安時代後期に妙見信仰の中心的寺院として朝廷にも知られていた鎌倉の生源寺(現在の鶴岡八幡宮付近にあり、鎌倉幕府成立後は岩窟不動尊の東に移されて松源寺と改名され、廃仏毀釈で廃寺)の存在などを指摘して、頼朝以前の鎌倉を都市とまでは言えなくても東国の天台宗の重要な拠点であったとする福島金治の見解(福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 P24-28・36.)。
  15. ^ 代表的なものとして、平野明夫「太田道灌と江戸城」東京都教育委員会『文化財の保護』21号、1989年、など
  16. ^ 柴裕之は小田原征伐中に豊臣秀吉が江戸城に御座所を設ける意向を表明しており(「富田文書」)、家康の移封後の本拠地の決定についても秀吉の意向が働いたとみている(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P195.)
  17. ^ 松平家忠の『家忠日記』によれば7月18日とされる。なお、柴裕之は徳川氏の領国の最終確定が8月1日であったことから、江戸幕府の成立後に徳川氏の領国確定日と八朔の日が重ねるこの日を家康の入城の日と定めたとする(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P193.)。
  18. ^ 竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁
  19. ^ 江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
  20. ^ 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
  21. ^ 内藤昌
  22. ^ 柳営秘鑑
  23. ^ 江戸食文化紀行
  24. ^ 宮崎昭の『食卓を変えた肉食』で、(1)カレーの牛肉を豚肉に替える食文化が出来た。(2)カツレツを豚肉で作ると特においしい事が知られた。(3)牛肉は豚肉にとって替わられていった。と、変化の状況を説明。
  25. ^ 吉田忠の『牛肉と日本人』ISBN 978-4540911064で、(1)東京人は真っ先に豚肉によって食肉の消費が増加。 (2)豚カツをはじめ豚肉の消費が多様化。(3)牛肉料理を豚肉に変えたらどうかと工夫を重ねる。最初は江戸において変化が起こった。
  26. ^ 農林省畜産局の『本邦の養豚』、全国で(1)1916年 337,891頭。(2)1925年 672,583頭。と、9年倍増のデータで前述の変化を裏付
  27. ^ 鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性", 史学研究, 209号 (1995), pp. 23–40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。また、ヨーロッパでの識字率の低さは、字が読めることが男らしくない、格好悪いとされた騎士道の時代の考え方の名残という文化的背景や、自分の名前がかける程度の者は非識字とカウントしている点なども考慮しなくてはならない
  28. ^ 朝日ジャーナル編、「大江戸曼荼羅」、p.211、朝日新聞社、1996年。


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