江戸 神社仏閣

江戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 22:07 UTC 版)

神社仏閣

Edo jisha.png

神社

寺院

葛飾北斎筆 東叡山中堂之図

江戸近郊

江戸の生活と文化

江戸のさまざまな場所から富士山を見ることができ、江戸の住人は富士山を愛した。江戸には富士見坂(=富士が見える坂)という名がついた坂も多い。浮世絵も多数描かれた。また富士山を信仰する富士講も非常にさかんとなり、江戸には多数の富士構信者がいた。その結果、わざわざ富士山まで行くことができない住民らのために富士塚が多数作られ、近所で日々富士登山ができるようになった。富士塚は現在でも多数残っている。この浮世絵は、目黒に二つあった富士塚のうちのひとつの新富士(現存せず)と富士山を描いたものである(『目黒新富士』名所江戸百景より。歌川広重:江戸後期)。

娯楽

江戸の歌舞伎。市村座での『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場(歌川豊国:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。
歌舞伎

1624年(寛永元年)には中村勘三郎(猿若)が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「猿若座」を開き、江戸の芝居小屋が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて堺町(今の人形町)へ移転。元禄時代(1688~1704年頃)には江戸の歌舞伎は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座(葺屋町=現 人形町)、森田座(木挽町=現在の歌舞伎座のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。

江戸落語

江戸の落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に鹿野武左衛門によって始められ、18世紀後半には烏亭焉馬の会咄を経て、三笑亭可楽(初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。

服装

江戸の識字率

江戸の成人男性の識字率幕末には70%を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等でいわゆる『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率が高い武士階級の人口も多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている[25]。また、明治時代に入ってからの話であるが、徴兵制施行時の調査では、事務処理が出来る実用的なレベルの読み書きが出来るものは20%程度だったという。

諺・故事成語

(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)

  • 江戸の敵を長崎で討つ
  • 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
  • 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
  • 江戸っ子の梨を食うよう
  • 江戸っ子の初もの食い
  • 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め
  • 京の着だおれ、大坂の喰いだおれ、江戸の呑みだおれ(京の人はファッションにお金を使い、大坂の人はグルメにお金を使い、江戸の人は酒を呑んで酔いつぶれている)[26]

江戸から東京へ

慶応4年/明治元年旧暦1月3日(1868年1月27日)に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。

同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「江戸府」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となった(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。同年旧暦10月13日(11月26日)に明治天皇東京行幸した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日(1869年3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日(1871年7月26日)には朱引が改定され、大区小区制に基づく六大区制が導入された。

同年旧暦7月14日(8月29日)の廃藩置県以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日(1872年2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年(1874年)3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年(1878年)11月2日には東京十五区制に落ち着く。以降、東京の町並が東京市東京都へと変遷しつつ東京都市圏に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。


  1. ^ ただし御三卿屋敷並びに抱屋敷の分を除いた
  2. ^ この場合「江戸湊」は語源が忘れられた後に出来た重言とされる。
  1. ^ 外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり
  2. ^ 『慶長記』
  3. ^ 石川英輔『大江戸リサイクル事情』 講談社 1997年
  4. ^ a b c d 山田邦明「古代・中世の江戸」(初出:藤田覚・大岡聡 編『街道の日本史20 江戸』(吉川弘文館、2003年) ISBN 978-4-642-06220-6 /所収:山田『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年) ISBN 978-4-88621-681-6
  5. ^ a b 岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年
  6. ^ 山田邦明「古代・中世の江戸」では、桜田は本来は(平川流域地域を指した)江戸の一部ではなく、江戸氏の勢力拡大や太田道灌の江戸城築城に伴う「江戸」の拡大よって本来属していた荏原郡から切り離されて豊島郡江戸の一部になったとしている。また、山田は江戸氏の館も後の江戸城ではなく、平川流域の現在の水道橋付近にあったとする説を提示している。
  7. ^ 「深江文書」
  8. ^ 内藤昌『江戸の町』(上)p.6-7
  9. ^ 岡野友彦「「静勝軒寄題詩序」再考」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館、2014年
  10. ^ 内藤昌『江戸の町(上)』p8-9。
  11. ^ a b 齋藤慎一『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)
  12. ^ 佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』塙書房、2006年(1992年発表)
  13. ^ 代表的なものとして、平野明夫「太田道灌と江戸城」東京都教育委員会『文化財の保護』21号、1989年、など
  14. ^ 柴裕之は小田原征伐中に豊臣秀吉が江戸城に御座所を設ける意向を表明しており(「富田文書」)、家康の移封後の本拠地の決定についても秀吉の意向が働いたとみている(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P195.)
  15. ^ 松平家忠の『家忠日記』によれば7月18日とされる。なお、柴裕之は徳川氏の両国の最終確定が8月1日であったことから、江戸幕府の成立後に徳川氏の領国画定日と八朔の日が重ねるこの日を家康の入城の日と定めたとする(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P193.)。
  16. ^ 竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁
  17. ^ 江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
  18. ^ 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
  19. ^ 内藤昌
  20. ^ 柳営秘鑑
  21. ^ 江戸食文化紀行
  22. ^ 宮崎昭の『食卓を変えた肉食』で、(1)カレーの牛肉を豚肉に替える食文化が出来た。(2)カツレツを豚肉で作ると特においしい事が知られた。(3)牛肉は豚肉にとって替わられていった。と、変化の状況を説明。
  23. ^ 吉田忠の『牛肉と日本人』ISBN 978-4540911064で、(1)東京人は真っ先に豚肉によって食肉の消費が増加。 (2)豚カツをはじめ豚肉の消費が多様化。(3)牛肉料理を豚肉に変えたらどうかと工夫を重ねる。最初は江戸において変化が起こった。
  24. ^ 農林省畜産局の『本邦の養豚』、全国で(1)1916年 337,891頭。(2)1925年 672,583頭。と、9年倍増のデータで前述の変化を裏付
  25. ^ 鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性", 史学研究, 209号 (1995), pp. 23–40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。また、ヨーロッパでの識字率の低さは、字が読めることが男らしくない、格好悪いとされた騎士道の時代の考え方の名残という文化的背景や、自分の名前がかける程度の者は非識字とカウントしている点なども考慮しなくてはならない
  26. ^ 朝日ジャーナル編、「大江戸曼荼羅」、p.211、朝日新聞社、1996年。





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