北大路魯山人 北大路魯山人の概要

北大路魯山人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/20 00:36 UTC 版)

きたおおじ ろさんじん

北大路 魯山人
生誕 (1883-03-23) 1883年3月23日
日本京都府愛宕郡上賀茂村京都市北区
死没 (1959-12-21) 1959年12月21日(76歳没)
日本神奈川県横浜市
墓地 京都市北区西賀茂の小谷墓地
出身校 梅屋尋常小学校[1]
職業 芸術家
親戚 (孫)北大路泰嗣
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晩年まで、篆刻家画家[2]陶芸家[2]書道家[2]漆芸家料理家美食家[2]などの様々な顔を持っていた。

略歴

1883年明治16年)、両親は京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、上賀茂神社社家・北大路清操(きよあや/せいそう)、登女(とめ、社家である西池家の出身)の次男として生まれる。士族の家柄だったものの生活は貧しかったうえ、版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸制と世襲制が廃止されたため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヵ月前に自殺する。母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪する。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る[3]。出生から5ヵ月後の1883年(明治16年)9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかしこの2ヵ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になる。同年秋に巡査の妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる[4]

3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという[4]

その頃、義兄に精神異常が出てその後死亡。1887年(明治20年)頃、房次郎が4、5歳だった時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3ヵ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出る。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく[4]

10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小学校新町小学校)を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日、奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳であった。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められた[4]

1896年(明治29年)1月に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念。養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていく。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から天の位1枚、地の位1枚、佳作1枚を受賞する。以後、彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める。この頃には西洋看板描きとしても活躍していた[4]

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知る。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志す。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した『千字文』が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後、住み込みで版下書きの仕事を始める。この頃、実母登女との関係も良くなっていく。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。そこでは福田可逸(かいつ)の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていく。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。1907年(明治40年)、福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。翌年2月17日、結婚[5]。その年の夏に長男が誕生。仕事は繁盛し、稼いだ収入を書道具や骨董品、外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

1910年(明治43年)12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヵ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活する。1911年(明治44年)3月、日本に残した妻に第二子が誕生。京城滞在1年弱で中国上海に向かい、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う。1912年(明治45年)夏に帰国。書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで房次郎は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。1915年大正4年)には、金沢細野燕台のもとに寄留し、美食陶芸への関心を啓発された[6][7]

1916年(大正5年)、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。そして北大路魯山人の号を使い始める(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていった。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂[8]を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり[3]、会員制高級料亭を始めた。

1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(ほしがおかがま)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。1930年(昭和5年)秦秀雄と出会う、意気投合し秦秀雄を星岡茶寮の支配人へ取り立てる。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放された。同茶寮は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、空襲により焼失した。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ山口淑子の夫妻を星岡窯に一時寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソマルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退した。

として鎌倉で生まれた陶芸家の北大路泰嗣は、祖父の魯山人から「泰嗣(ひろし)」と命名された。陶芸家でも有名であった北大路魯山人の影響を受けており、幼ない頃から魯山人と親交のあった荒川豊蔵の水月窯で陶芸の修業を積み、1992年(平成4年)岐阜県にに无疆窯(むきょうがま)を開設し、その窯元として活動。

1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変[9]のため横浜医科大学病院で死去。

1998年平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

人物

魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は生涯払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした[10]

6度の結婚(1908年〈明治41年〉、1917年〈大正6年〉、1927年〈昭和2年〉、1938年〈昭和13年〉、1940年〈昭和15年〉、1948年〈昭和23年〉)は全て破綻。2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの、長じて魯山人の骨董を持ち出したことから激怒して勘当し、最晩年にいたっても本人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオテレビホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという[10][11]

美食家として名を馳せた魯山人は、見た目の美しさを重視する傾向にあるフランス料理に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。この時使ったわさびは粉ワサビだった[12]

傲岸不遜[2]、狷介、虚栄などの悪評が常につきまとった。毒舌でも有名で、柳宗悦梅原龍三郎横山大観小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王吉田茂などから愛されもした[10]

気難しい性格で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。

阪急電鉄創業者の小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付の小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会の中止を申し出た[13]

相手によって態度を変えることがなかった一方で、少年時代に魯山人と接していた人物によると、子供に対しては優しく接していたと言う。彼が路地に咲いた雪柳を竹竿で払い落として遊んでいると、魯山人が駆け寄ってきて「おいおい。花にも命があるんだ。そんなことをしたらかわいそうだろ」と諭した。自然を愛し、花卉や小さな生き物が好きで、いつもスケッチをしていた。少年が「昨日も同じものを描いていましたよね?」と話しかけると、「毎日、同じと思うのかね。すすきも、すすきに来る虫も、毎日違うんだぞ」と諭されたという[14]


  1. ^ 保育社小松正義衛『北大路魯山人』(保育社カラーブックス、1995年11月)p.120,134
  2. ^ a b c d e 魯山人 追い求めた美/市是から学んだ心■真の理解者探し続け朝日新聞』朝刊2020年1月13日(文化/科学の扉面)2022年1月23日閲覧
  3. ^ a b 5回ほど預けては連れて帰るを繰り返した説もある。
  4. ^ a b c d e 山田和『知られざる魯山人』文藝春秋 2007年
  5. ^ この妻とは1914年に離婚。以後、生涯にわたり再婚と離婚を繰り返す。「#人物」の項も参照。
  6. ^ 20世紀日本人名事典『細野 燕台』 - コトバンク
  7. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『細野燕台』 - コトバンク
  8. ^ 江戸時代中期の文人画家池大雅は魯山人と同じ京都・上賀茂の生まれ。年若くして書が評価された点も同じ。
  9. ^ 肝吸虫は、魯山人の好んだタニシから寄生したとする論説もあるが、肝吸虫の第一中間宿主となるマメタニシは人間の食用にならず、なおかつヒトへの感染は第二中間宿主のコイ科魚類の生食から起こることから、別の感染経路と推定されている。
  10. ^ a b c 増田晶文:没後50年 美と食の巨人「北大路魯山人」が残したもの『週刊新潮』2009年12月24日号
  11. ^ これらの番組を視聴する際は魯山人は人払いをしていたが、このような場面では咳払いをする音が頻繁に聞こえてきたので、料理人たちは「またやってる」と陰で笑い合っていたという(毎日新聞の記事より)。
  12. ^ 雁屋哲原作のグルメ漫画『美味しんぼ』の登場人物で、彼をモデルにしたとされる海原雄山は作中でこれと同様の行為をしている。
  13. ^ 記事名不明[リンク切れ]産経新聞(2010年10月8日)
  14. ^ LEON LIFESTYLE 【vol.16】北大路魯山人/前編 破天荒の巨人・北大路魯山人とはどんな男だったのか?【前編】」(2022年3月31日)より。
  15. ^ 作品の著作権は2010年1月1日に消滅し、パブリックドメインになった。故に文庫版が、2社で同時刊行された。なお編集された著作物には、編集者の著作権が残る。
  16. ^ 初刊は文藝春秋 全1巻、1972年。文春文庫 全2巻で再刊。著者白崎秀雄は、再取材し改稿した新版を刊行。
  17. ^ 山田和『知られざる魯山人』文藝春秋


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