万葉集
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概要
万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[注 1]。
天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][3][4][注 2]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い[6]。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。
日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった[7][8]。
成立
書名の由来
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、
- やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖[9]や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「
なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、当時において『万葉集』以外では用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、延暦25年(大同元年・806年)4月16日に五百枝王が平城天皇に対して臣籍降下と春原朝臣の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於萬葉」という句が見られるのが挙げられる(『日本後紀』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる説があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの関与をした状況証拠とする研究者もいる[10][11]。
編者と成立年代
『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
- 巻1の前半部分(1 -53番)…
- 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
- 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
- 残巻増補…20巻本万葉集
ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は平城天皇即位後の恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年・大同元年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。『古今和歌集』真名序には「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」という言葉が載せられているのも、最終的な完成が家持の赦免後であったという事情を反映した記述とみられている[12][13]。ただし、その場合には家持に代わって遺稿を完成形にして公の認知を得た"編者"が存在していたことも考えられるが、その"編者"として名前が挙がっているのは五百枝王(臣籍降下後は春原五百枝)である[10][14][11]。五百枝王は編纂への関与が指摘される市原王の子で、藤原種継暗殺事件で家持との親交から自らも連座していること、現存の記録から確認できる「万葉」の語の初期の使用者(前述)であることが理由に挙げられるが、現時点ではいずれも状況証拠に過ぎず、今後"編者"の存在の有無も含めて検討すべき要素が多い。
「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[15] などがある。
諸本と刊本
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万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の9割にあたる4000以上の歌が訓をつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉や小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解が示されている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解を示している。古点と伝える資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。
ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果を指し、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実、藤原清輔、藤原長忠、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名をとって廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行われている。
新点本は仙覚が校訂した諸本を指し、大きく寛元本系統と文永本系統に分かれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉や田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測されている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。
文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
なお、近年出現した広瀬本万葉集については、項目を別に改めて付加して概述される必要がある。
古点本
本節は特記以外は『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目(執筆者は林勉)による。
桂本
皇室御物。平安時代中期の書写と推定されており、現存する最古の写本である。巻4の3分の1ほどの109首を収める1巻のほかに、断簡(栂尾切ともいう)が66首と37首分の目録が残る。源兼行筆とされるが、ほかに紀貫之、源順、藤原行成、源俊房とする説がある。次点の影響が少なく、古点本の面影を残している。花鳥草木を描いたきわめて美しい継色紙が使われ、紙背継目の花押から伏見天皇の御物といわれる。その後、前田利家室芳春院の所有となり、子の利常が桂宮家に献上した。名はこれによる。1881年(明治14年)、桂宮家断絶により皇室に入った。断簡は石川武美記念図書館、五島美術館、出光美術館、梅沢記念館ほか諸家が所蔵している。
金砂子切
平安時代後期の書写で桂本の類である。巻13の8葉13首のみが現存する。長歌には訓がない。金砂子を散らした鳥の子紙に書かれており、この名がある。醍醐寺、石川武美記念図書館等が所蔵している。
嘉暦伝承本
1328年(嘉暦3年)に増充から慶俊に相伝した識語があり、この名がある。鳥の子紙で、綴葉装である。巻11の大部分の472首が1帖に収められている。定家仮名遣いで次点期を経ているが、『拾遺集』所収の万葉歌と一致し、古点を伝えている。松坂高尾家旧蔵で、本居、松本、中山、佐佐木家から文化庁を経て、現在は国立歴史民俗博物館が所蔵している。また巻11の欠落部分の模写断簡7首が民間にある。
次点本
藍紙本
平安時代中期ないし後期の書写で、藤原伊房の筆とされるが藤原公任説などもある。薄藍色の漉紙に銀砂子を散らした料紙に書かれていることからその名がある。巻9の5分の4ほどの110首と111首分の目録からなる1巻が現存する。そのほかに
- 巻1の2首
- 巻9の23首
- 巻10の4首
- 巻18の27首
の断簡が残る。次節に述べる元暦校本と同系統である。会津松平、原、中村家を経て、現在は京都国立博物館[16]が所蔵している。断簡は日本学士院、石川武美記念図書館、京都国立博物館、逸翁美術館、五島美術館、徳川美術館、書芸文化院などが所蔵している。
元暦校本
1184年(元暦元年)に校合したとの奥書がある。平安時代中期ないし後期の数筆の寄合書きである。うち、巻17、18は同筆であり、巻6は鎌倉時代初期の補写と考えられている。巻3、5、8、11、15、16を除く14巻、計2617首と2129首分の目録が現存する。そのほかに断簡(難波切ないし有栖川切ともいう)は巻3、5、8、9、13、15、16を除く13巻148首と目録201首分が残っている。すなわち15巻にわたる、全歌数の6割以上が現存している次点本では貴重な写本である。藍と紫の飛雲形文を漉込んだ鳥の子紙の(補写である巻6は飛雲形を欠く)粘葉装である。黒、緑、赤、朱の書き入れがあり、万葉集の本文校訂上最重要である。
減じて江戸時代初期には15冊に、さらに14冊になった。巻1、4、6、10、12、19の6冊の各一部を分けて有栖川宮家から高松宮家に移り、残る大部分は伊勢富山家、神戸俵屋から、天保初期に桑名松平家、1843年(天保14年)に水野忠邦、1911年(明治44年)に古河家に移ったあと、ともに文化財保護委員会の所蔵となった。高松宮家旧蔵の6冊、古河家旧蔵の14冊とも、現在は東京国立博物館所蔵[17]。断簡は仁和寺、宮内庁侍従職、東山御文庫、常盤山文庫、國學院大學図書館、石水博物館、白鶴美術館、MOA美術館などが所蔵している。荒木田久老、加藤千蔭、橋本経亮、鹿持雅澄らが校訂に使用した。
金沢本
三の丸尚蔵館所蔵[18]。藤原定信筆とされるが、源俊頼、藤原公任説もある。粘葉装、1帖。胡粉引きの白を主として、ほかに薄茶、浅葱、黄の色に、金銀切箔を散らし、雲母による菱唐草や亀甲などの文様を雲母刷りした唐紙を料紙とする。巻2の約5分の4の129首および150首分の目録と、巻4の約4分の1の79首をあわせ1帖とする。そのほかに巻3、4、6の24首と76首分の目録の断簡が現存する。本文と訓は元暦校本・紀州本にもっとも近い。金沢前田家旧蔵による名称。1910年(明治43年)に前田家から皇室に献上された。断簡は逸翁美術館等が所蔵している。また古筆手鑑『筆林翠露』に収められている。
天治本
1124年(天治元年)に書写との奥書があり、名称はこれに由来する。これは万葉集最古の書写記録であり、後述の巻2断簡は1129年(大治4年)の書写。巻13の完本と巻15の58首の1巻および
- 巻2の6首
- 巻10の42首
- 巻14の10首
- 巻15の25首
の断簡(仁和寺切ともいう)が現存する。檀紙の巻子本で墨罫があり、寄合書だが巻14と巻15は同筆である。忠兼本を書写した本で、仙覚本底本系統である。福井家と賀川冠纓神社[19]の所蔵。断簡は、加藤、熊沢、角田、沢瀉、武田、岡村、池上、久曾神家および東京国立博物館、京都国立博物館、天理図書館、石川武美記念図書館、岡山美術館、五島美術館などが所蔵している。
1845年(弘化2年)に伴信友が京都曼殊院所蔵の零本5巻(現存しない)を影写して『検天治万葉集』を作成して
- 巻2の9首
- 巻10の4首
- 巻14の10首
- 巻15の11首
- 巻17の4首
が残っている。したがって総計306首が現存する。こちらは京都大学所蔵である。
伝壬生隆祐筆本
鎌倉時代中期の書写。書写者の伝承による名称だが、確証はない。もと冊子本を巻子本にしており、巻9の前半85首を3巻にしたものと後寄りの4首の断簡が現存する。天治本と同系で、仙覚本底本系統である。四日市高尾家旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。
尼崎本
平安時代末期の書写。雲母引斐紙の料紙で綴葉装。巻16の全1帖(1枚を欠く)101首と、巻12の61首の断簡、11首の模写が現存する。天治本系で、仙覚本底本系統であり、『類聚古集』に近い。断簡が尼崎から出たことによる名称。倉敷某家から京都大学が所蔵している。断簡は池上、亀井、反町、渡辺、酒井、沢瀉、田中、辻坂家および円照寺、京都女子大学、天理図書館、石川武美記念図書館、白鶴美術館、出光美術館などが所蔵している。模写は東洋文庫が所蔵。古筆手鑑「桃花水」「心画帖」「鸞鳳帖」「筆鑑」「筆林」に所収されている。
伝冷泉為頼筆本
半紙形袋綴1冊で、巻1のほぼすべて83首を記載する。ただし目録には後の補校合がある。訓はカタカナで、長歌は本文右に、短歌は左別行に記している。江戸時代初期の冷泉為頼筆と伝えられるが、カナに古体があり室町時代の書写と考えられている。尾張久米家、阪家、佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。
春日本
鎌倉時代中期の1243年(寛元元年)と翌年に春日神社若宮の神官中臣祐定が書写したとの奥書があり、名称はこれによる。多くが春日若宮神官の和歌懐紙の裏側使用の断簡なので春日懐紙切ともいう。もとは袋綴。
- 巻5の24首と書翰2
- 巻6の37首と目録30首分
- 巻7の100首と目録217首分
- 巻8の54首と目録38首分
- 巻9の8首
- 巻10の15首
- 巻13の14首
- 巻14の37首
- 巻19の16首
- 巻20の77首
の合計382首と目録285首分と書翰2以上が現存する。
懐紙の和歌を鑑賞のため万葉歌を削っているので判読が困難なものが多数ある。本文の右にカタカナで訓をつけるが、仙覚以前の次点本である。前田家旧蔵だが明治初期に諸家に分散して、松岡、関戸、福井、吉永、谷村、八木家および浄照坊、國學院大學図書館、石川武美記念図書館、ハーバード大学フォッグ美術館、石川県立郷土資料館などが所蔵している。
紀州本(神田本)
全巻20巻の前半巻10までが次点本。鎌倉時代末期の寄合書きである。ただし巻7が2首を欠き、巻10で1首が重出する。鳥の子紙、元来粘葉本を綴本に改装している。訓をカタカナで漢字の右側に付すが、新点の訓が左側などに加えられている。巻10の奥書から藤原忠兼→源光行→行遠系統の本と見られるが、天治本とは必ずしも合致しない。後半巻11以降は室町時代後期、1542年(天文11年)以前の文永三年本系新点本による補写である。後藤家を経て公益財団法人後藤報恩会昭和美術館が所蔵している。水戸徳川家の『四点万葉』に校合し、契沖の『万葉代匠記』にも引用されている。
『類聚古集』
歌体や題材により歌を分類している。平安時代末期の書写。3834首が現存する。中山家、大谷家を経て、龍谷大学が所蔵している[20]。
『古葉略類聚鈔』
これも歌体や題材により歌を分類している。1250年(建長2年)の書写で、1934首が現存する。奈良興福院と石川武美記念図書館が所蔵している。
その他の断簡類
- 伝俊寛筆切
- 鎌倉時代の書写。巻1の2葉2首のみだが、本文、訓とも元暦校本に近い。竹田家の所蔵。
- 定家様切
- 鎌倉時代末期から室町時代初期の書写。巻1の1葉3首のみ。書風による名称。為頼本と同系統である。滋賀正禅庵の所蔵。橋本経亮影写で知られる。
- 橋本経亮影写中臣祐春筆切
- 巻19の1葉3首のみ。春日本中臣祐春祐春の影写で、稲葉家の所蔵。
- 後京極様切
- 鎌倉時代の書写。巻7の4葉8首。元来は冊子本であった。訓はカタカナで本来は本文の右に付すが、のちの補筆では左に付す。系統不明ながら次点本で、紀州本や『類聚古集』に近い。後京極摂政藤原良経の書風による名称。佐佐木家を経て、石川武美記念図書館ならびにハーバード大学フォッグ美術館の所蔵。
- 伝解脱上人筆切
- 鎌倉時代初期の書写。巻9の1葉2首と巻10の1葉4首。素紙、六半形本にカタカナ傍訓で、二条院御本と関係がある。『古筆名葉集』による名称だが、書風から為家様切とも呼ばれる。佐佐木家を経て石川武美記念図書館の所蔵、および小西家の所蔵。
- 伝教家筆切
- 鎌倉時代の書写。巻3の1葉3首のみ。カタカナ傍訓で、紀州本、細井本と一致するものがある。弘誓院教家の書写との伝承による名称。加藤家を経て伊東家手鑑所収。
- 橋本経亮影写無名氏筆切
- 鎌倉時代の書写。巻10の1葉4首のみ。カタカナ傍訓で、『類聚古集』の訓に近い。冒頭の記載による名称。稲葉家の所蔵。
- 伝為家筆切
- 鎌倉時代中期の書写か。巻1の1葉3首のみ。斐楮交ぜ漉き紙を用い、傍訓をひらがなで書いている。箱書による名称。天理図書館の所蔵。
- 柘枝切
- 鎌倉時代末期から南北朝時代初期の書写。巻3の1葉2首のみ。楮紙で、元来は巻子本か。傍訓は古体のカタカナで京大本赤訓に近い。詞句による名称。佐佐木家を経て石川武美記念図書館の所蔵。
- 『万葉集目録』
- 平安時代後期の書写。巻16の1葉5行のみ。鳥の子紙に書かれる。近衛家の所蔵。元来は全巻分あったと考えられるが、残存していた2巻2葉は関東大震災で焼失し、1葉だけが残った。原本の影写本が『万葉集叢書10』所収である。
新点本
新点本ではほとんどの場合、傍訓形式で訓を本文の右側にカタカナで記している。うち文永本は古点、次点、新点のうち正しいと考えられた訓を多くの場合、色分けして右側に記している。それに対し寛元本では古点、次点を右側に、新点を左側に書いている。
神宮文庫本
楮紙で袋綴じ。全巻20冊だが
- 巻1の1葉3首
- 巻2の1葉1首
- 巻19末尾歌の左注以下の尾題
を欠いている。1546年(天文15年)以前の室町時代後期の書写。寛元本系の現存する最古の写本である。外宮宮崎文庫を経て、現在は神宮文庫が所蔵しており、この名がある。
細井本
楮紙で袋綴じ。全巻20冊だが、巻4の後半273首に代わって巻3の後半107首が重複して書かれている。全体は江戸時代初期に書写された寛元本であるが、巻4、5、6は室町時代末期の書写で為頼本と同系統の次点本である。1797年(寛政9年)に細井貞雄が温故堂本と校合し奥書を記していることから、この名がある。木村正辞を経て、現在は東洋文庫が所蔵している。
林道春校本
その名の通り林道春が江戸時代前期に細井本を書写したものである。現在は内閣文庫が所蔵している。後述の版本の活字無訓本はこれを底本にしている。
学習院本
江戸時代の書写であり、基本的には寛元本系だが、巻5、6は次点本系である。学習院大学図書館所蔵で、この名がある。
今出河本
江戸時代前期の書写である。寛元本系だが、巻4、5、6は文永本系である。現在は宮内庁書陵部が所蔵している。
西本願寺本
西本願寺本は鎌倉時代後期の13世紀末から14世紀初頭の書写と推定されている、20冊の冊子本である。縦が約32.1センチ、横が約24.8センチの大きさで、「大和綴」という装丁がなされている。この写本は、1266年(文永3年)に仙覚が完成させた『仙覚文永三年本萬葉集』(原本は失われている)の系統に属している。仙覚と親交があった北条実時が完成後間もなく書写したものを、さらに書写したものと考えられている。さらに鎌倉幕府滅亡後に足利義満が北条実時の創建になる称名寺に使者を遣わして貴重な書籍を収集した折に、『尾州家河内本源氏物語』(大きさ、装丁が酷似している)などとともに入手し、後年皇室に献上したものである。その名称は、後奈良天皇が本願寺第10世の証如に下賜して、西本願寺の蔵書となったことから、佐佐木信綱が命名した。1917年(大正6年)に佐佐木の手に渡ったあと、現在は佐佐木が寄贈した「竹柏園本」内の一点として石川武美記念図書館が所蔵している[21]。
田中本
西本願寺本を書写したものである。題詞が低い。訓を黒、紺青、朱に書き分けるのは文永本に準ずるが、この写本では紺青を朱、黄、緑に分けている。室町時代末期の書写で、各巻は別人の筆になる。所蔵者による名称。
河野本
1677年(延宝5年)に河野公業が西本願寺本を書写したもの。水戸徳川家の四点万葉に校合し、訓を黒、青、朱、黃に書き分けている。『万葉代匠記』にも幽斎本として引用される。彰考館が所蔵している。
金沢文庫本
室町時代初期の書写だが、飛鳥井雅世、尊円法親王筆との説もある。元来大型冊子本だったものを巻子本にした。巻1、9、19の全歌4巻(巻19は二分されている)と
- 巻7の10首
- 巻12の84首
- 巻13の18首
- 巻14の3首
の断簡と巻13の3首の影写が現存する。このほかに巻11は関東大震災で焼失したが、『校本万葉集』に校合されているのと、木村正辞の『万葉集書目提要』に巻4が記されている。文永三年本系であるが、巻11と巻19は文永十年本寂印成俊本系。題詞は低く書かれ、巻7、9、11、12、13、19は訓を黒、紺青、朱に書き分ける。金沢文庫に伝来したことによる名称である。
巻1、19は大口鯛二旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。巻9は馬越家の所蔵。断簡は、久曾神、酒井、久松、渡辺、池上、藤井家および真如堂、金剛証寺、天理図書館、奈良県立万葉文化館、京都国立博物館、MOA美術館、山川美術財団などが所蔵。また古筆手鑑『筆鑑』に、影写本は東洋文庫『万葉切』に所収される。
陽明文庫本
全巻20冊であるが、巻10の152首を欠いている。鳥の子紙で大和綴。陽明文庫旧蔵による名称であるが、巻9に1571年(元亀2年)の奥書があるため元亀本とも呼ばれる。しかし同年以後の書写である。文永十年本頼直本系で、黒、紺青、朱の訓が残る。温故堂本の書写の際に底本にされている。曼殊院から近衛家を経て、現在は京都大学図書館が所蔵している。
温故堂本
胡蝶装で、全20巻を合本して10帖にしている。そのうち
- 巻6の目録の初め28首分
- 巻10の152首
- 巻19の1首
を欠いており、巻6は温故堂一伝の東京帝国大学本から木村正辞が補写したものである。文永十年頼直本系の陽明文庫本を書写したが、紺青訓がなくその部分は空白が多い。木村正辞から東洋文庫が所蔵している。
東京帝国大学本
袋綴で、全巻20冊。光明寺覚雄等が温故堂本を書写した。東京帝国大学旧蔵による名称。関東大震災で焼失したが、温故堂本に欠けている部分が『校本万葉集』に校合されている。
大矢本
室町時代末期、数人の筆による書写。袋綴で全巻20冊であるが、
- 巻12の1首
- 巻19の6首
- 6首の訓
を欠いている。文永十年本寂印成俊本系で寛永版本の巻7の錯簡を補う資料として重要である。大矢透旧蔵による名称だが、元は京都木田家蔵で、大矢家、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。
近衛本
江戸時代初期の書写。大型袋綴で、20冊の全本。文永十年本寂印成俊本系であるが、中院本に見られる禁裏御本巻1、20の奥書がある。大矢本と同系であるが、無訓歌は5首のみで書写字形も明瞭で、より善本である。近衛家陽明文庫所蔵で、この名がある。
京都大学本
江戸時代初期の書写。袋綴で、20冊の全本だが巻19の1首を欠いている。文永十年本寂印成俊本系である。巻1、2、9、13、20に禁裏御本の奥書があり、全巻にわたって赤で禁裏御本と校合した書き入れがある。巻1の奥書には古万葉集序を記す中院本のひとつで、寛元本の内容を知り得る貴重な写本である。京都大学図書館が所蔵している。
その他の諸本・断簡
- 谷森本
- 江戸時代初期の書写で、袋綴。巻1を欠く19冊。中院本系。題詞は低く、巻3と巻4に青訓がない。所蔵者による名称だが、関東大震災で焼失した。
- 谷森氏一本
- 江戸時代初期の書写で、袋綴。全20冊。中院本系。後半は谷森本を書写したもの。所蔵者による名称だが、関東大震災で巻1と巻2が焼失した。
- 多和文庫本
- 江戸時代の書写で、中院本系。谷森本の一伝本。松岡家多和文庫所蔵による名称。
- 伝空性法親王筆本
- 江戸時代初期の書写で、中院本のひとつである。書写の伝承による名称。前田家が所蔵。
- 岩崎文庫一本
- 江戸時代初期の寄合書で、中院本系。岩崎文庫所蔵による名称だが、現在は東洋文庫所蔵。
- 図書寮一本
- 江戸時代初期の書写だが各巻別筆で、大型袋綴。巻1、2、14を欠く17冊。文永十年本寂印成俊本系で、黒、朱のほかに巻5以外は青紺訓がある。巻5、19、20を除き禁裏御本と校合されるが、奥書はない。所蔵所による名称。
- 伝清輔筆切
- 鎌倉時代中期の書写。巻10の1葉2首のみ。カタカナ傍訓で青紺訓がある。西本願寺本に近い。極書による名称。久曾神家が所蔵している。
- 八田切
- 鎌倉時代末期の書写で紹巴筆との説もある。巻10の1葉2首のみ。歌は低く、カタカナ傍訓。神宮文庫本などに近い。歌詞による名称。佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。
- 為氏様切
- 鎌倉時代末期の書写。雲母引きの鳥の子、四半形本の断簡。巻10の1葉2首のみ。歌は低く、カタカナ傍訓。西本願寺本等に近い。書風による名称。佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。
- 伝貫之筆切
- 鎌倉時代または平安時代末期の書写。巻19の1葉3首のみ。歌が低く、カタカナの傍訓に文永本の特徴がある。箱書による名称。『日本の書』(講談社、1978年刊)に所収。
- 桂様切
- 室町時代の書写。巻7の4葉18首、巻8の4葉11首のみが現存する。文永本系で、桂本を真似た金銀泥下絵があり、それによる名称。団、酒井家および東山御文庫、石川武美記念図書館、京都国立博物館などが所蔵している。
- 伝慈鎮筆切
- 室町時代の書写。巻3の1葉3首のみ。鳥の子で元来巻子本、歌が高くカタカナ傍訓で新点本系とともに推定されている。極書による名称。天理図書館が所蔵している。
- 伝為継筆切
- 巻4の目録1葉6首分のみ。系統は不詳。極書による名称。古筆「凌寒帖」所収。
版本
活字無訓本
江戸時代初期の刊行であり、初めての万葉集の版本である。全巻だが10冊のものと20冊のものがある。一面は8行×18字詰めで、上下左右に二重の界線がある。歌を高く記し、題詞と左注は1字低い。全体は寛元本系だが、巻4、5、6は細井本系の林道春校本に依っているため、巻4の後半が欠落し、巻3の後半が重出する。また、巻3末尾に大伴旅人、大伴家持、藤原不比人の伝が掲載されている。内閣文庫、東京大学図書館、大阪府立中之島図書館、石川武美記念図書館、尊経閣文庫、大東急記念文庫、穂久邇文庫、大英博物館などに所蔵されている。
活字附訓本
活字無訓本を文永十年本系の寂印成俊本(現存しない)で校合して訓をつけたもの。木版で袋綴じ、全巻10冊である。江戸時代初期の慶長(1596年 - 1615年)か元和(1615年 - 1624年)ごろの刊行と考えられている。なお、以下の奥書が付されている。
- 巻1に文永十年および三年の仙覚奥書
- 巻20に文永三年の仙覚奥書、寂印と成俊の奥書
国会図書館、石川武美記念図書館、天理図書館、東洋文庫、宮内庁書陵部、東京大学図書館、大谷大学図書館、龍谷大学図書館などに所蔵されている。
寛永本
寛永版本とも呼ばれる。江戸時代初期の1643年(寛永20年)の刊行で、京都三条寺町安田十兵衛の刊記がある。木版で袋綴じ、全巻20冊である。活字附訓本の整版本だが、若干の増補改訂が行われている。江戸時代から流布本として用いられ、明治時代から戦前まで各種テキストの底本とされていた。国会図書館などが所蔵している。
宝永本
1709年(宝永6年)の刊行であるが、寛永本の刊記だけを出雲国寺和泉掾のものとした。国会図書館などが所蔵している。
旁註本
宝永本の本文に旁註を施したものである。木版で袋綴じ、全巻20冊である。1789年(寛政元年)の刊行で、註は常陸国の恵岳が契沖、賀茂真淵説に自説を加えて行った。出雲国寺和泉掾と同文治郎の刊記がある。国会図書館などが所蔵している。
『古万葉集』
木版で袋綴じ、全巻20冊である。1803年(享和3年)に和泉寺などによって刊行された。土佐国の今村楽と横田美水が宝永本に改訂を加えて本文だけを出版したもので、今村の序と横田の跋がある。内閣文庫などが所蔵している。
校異本
『校異本万葉集』の題を持つ。木版で袋綴じ、全巻20冊である。校異を上欄に記している。1805年(文化2年)の刊行で、出雲寺文治郎の刊記がある。旁註本の註を削除して、元暦校本等の橋本経亮の校異に藤原(山田)以文が再校を加えたものが掲載されている。国会図書館などが所蔵している。
注釈
- ^ 「平仮名」や「片仮名」の成立以前だったため、例えば、助詞などは音が同じ漢字を当てるなどして表記した(万葉仮名)。[2]
- ^ 万葉集の詠み人は天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人などさまざまな身分の人々と考えられてきているが、品田悦一(東京大学教授)によれば、今日ではほぼ全ての研究者から否定されているという[5][要検証 ]。
- ^ 第16巻には一首の仏足石歌も収録されている(国歌大観3884番歌)。
- ^ 今の長野県・静岡県から関東地方、東北地方南部まで含まれる。
- ^ 旋頭歌の一つ。
- ^ 李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。
- ^ 日本で最初に万葉集の全口語訳をした[30]
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 万葉集 2001
- ^ 「源氏物語の和歌 (コレクション日本歌人選) 」風間書院、2011年8月5日
- ^ 菅野 2006
- ^ 「おわりに――『万葉集』は言葉の文化財」(上野 2017, pp. 212–220)
- ^ 品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』白水社、2017年8月)
- ^ 伊藤博『図説 日本の古典2 萬葉集』堀内末男、1978年4月4日、28頁。
- ^ a b 『元号を改める政令及び元号の読み方に関する内閣告示について』(HTML)(プレスリリース)内閣総理大臣官邸、2019年4月1日 。2019年4月1日閲覧。
- ^ “新元号は「令和」 出典は「万葉集」|平成から令和へ 新時代の幕開け”. NHK NEWS WEB. 2020年12月29日閲覧。
- ^ 佐佐木信綱 編「万葉代匠記」『契沖全集』 1巻、朝日新聞社、1926年、5頁。doi:10.11501/979062。
- ^ a b 安田喜代門『万葉集の正しい姿』(私家版、1970年)P130.
- ^ a b 木本好信「志貴皇子系諸王と『萬葉集』の成立」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(原論文:『龍谷大学日本古代史論集』3号、2020年)2021年、P95-104.
- ^ 伊藤博『萬葉集釋注』十一(集英社、1998年)P248.
- ^ 朝比奈英夫『大伴家持研究-表現手法と歌巻編纂-』(塙書房、2019年)P243-249.
- ^ 大森亮尚「志貴家の人々-五百枝王の生涯と万葉集成立をめぐって-」(『山手国文論攷』6号、1984年)
- ^ 上田正昭(京都大学名誉教授)
- ^ “万葉集巻第九残巻(藍紙本)”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月9日閲覧。
- ^ “国宝 元暦校本万葉集”. 東京国立博物館. 2019年10月14日閲覧。
- ^ 『皇室の名宝日本美の華』(展覧会図録)、東京国立博物館、2009、p.183
- ^ “万葉集巻第十五残巻(天治本)”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月9日閲覧。
- ^ 類聚古集 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b 小松靖彦「ことばの宇宙」『現代思想』2019年8月臨時増刊号
- ^ 『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目。執筆者は中西進
- ^ 「消えゆく物語をどう残すか」(上野 2017, pp. 149–180)
- ^ 『安倍内閣総理大臣記者会見』(HTML)(プレスリリース)内閣総理大臣官邸、2019年4月1日 。2019年4月1日閲覧。
- ^ 安田徳太郎『日本人の歴史 第1 万葉集の謎』光文社〈カッパ・ブックス〉、1955年。ASIN B000JBGU8Q
- ^ 西端幸雄『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』大和書房、1991年11月。ISBN 4-479-84017-6。
西端幸雄『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』(新装版)大和書房〈古代文化叢書〉、1994年8月。ISBN 4-479-84032-X。
安本美典『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』JICC出版局、1990年2月。ISBN 4-88063-784-X。
安本美典『新・朝鮮語で万葉集は解読できない』JICC出版局、1991年9月。ISBN 4-7966-0183-X。などがある。 - ^ 朝鮮語で「万葉集」は解読できない
- ^ 山本弘 著「オハイオ州でおはよう! ドン・R・スミサナ 吉田信啓訳『古代、アメリカは日本だった!』America: Land of Rising Sun」、と学会 編『トンデモ本の世界』洋泉社、1995年11月、156-161頁。ISBN 4-89691-166-0。
- ^ CiNii Articles 万葉集の謎は英語でも解ける
- ^ 「はじめに」(上野 2017, pp. 3–12)
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