オペラ オペラの概要

オペラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 04:12 UTC 版)

イタリアミラノにあるスカラ座1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。

概要

オペラは、舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と共通しているが、セリフだけではなく、大半の部分(特に役柄の感情表現)が歌手による歌唱で進められることを特徴とする。歌手は器楽合奏により伴奏されつつ歌い演じる。伴奏は、多くの場合交響楽団規模の編成に及ぶ。

初期ロマン派までのオペラでは、歌唱には二つの様式がある。一つは、レチタティーヴォ(朗唱)で、会話を表現するものであり、普通の朗読に近い抑揚で歌われる。もう一つはソロ(独唱)で歌われるアリア(詠唱)や複数の歌手が歌う重唱アンサンブル)あるいは大勢で歌う合唱で、通常の歌唱である。これらの様式はみな伴奏を伴う。

レチタティーヴォは、古典派の時代まではチェンバロのみで伴奏されるレチタティーヴォ・セッコと、管弦楽伴奏によるレチタティーヴォ・アッコンパニャートがあり、前者は会話的な抑揚で語るように歌う。後者は直後のアリアや重唱の導入として置かれることが多い。ロマン派時代のオペラではレチタティーヴォ・セッコはほとんど見られなくなった。

アリアは主に登場人物の感情を表現するもので、古典的なオペラではアリアを歌う間はドラマの進行が静止することもあるが、時代が下るにつれて、アリアでも登場人物の感情の推移を通じてドラマを進めるようになった。アリアはおおむね大規模なもので、主要な登場人物について割り当てられる。より小規模なものをアリオーソ、カンツォネッタ、ロマンツァなどと、歌の性格によって呼ぶこともある。

役柄どうしの対話は重唱で行われ、群集などが登場する場面では合唱も加わることがある。特に各幕の終曲(フィナーレ)では、ほとんどの登場人物による重唱や合唱で構成される場合がある。

これらの独唱・重唱・合唱について、古典的なオペラでは各々が独立して作曲されており、一連番号が付けられていたことから「ナンバーオペラ」と呼ばれ、各ナンバーの間は前述したレチタティーヴォによってつながれる。各曲が独立しているため、上演時の都合によりナンバー単位で省略されたり、作品の作曲家または別な作曲家により、代替あるいは挿入用のアリアが加えられたりすることもあった。しかしロマン派の半ば以降にはナンバーによる分割が廃され、各幕を通して作曲されるようになった(上演の際に慣習的なカットを行うことがある)。また、アリアとレチタティーヴォも明確には区別されなくなっていった。

ジングシュピールオペラ・コミックオペレッタサルスエラなどの様式では、レチタティーヴォ・セッコでなく台詞を用いて劇が進められる。

歌手、および歌手の演ずる役柄はそれぞれの音高(声域)で分類される。男性歌手(男声)は声域が低い順にバスバスバリトンバリトンテノールカウンターテノールに、女性歌手(女声)は声域が低い順にアルトまたはコントラルト、メゾソプラノソプラノに分類される。

また、歌手の声の質も役柄との関係が深く、声質によって歌えたり歌えなかったりする役柄は多い。たとえば、ベッリーニの『ノルマ』の題名役、ヴァーグナーの『ニーベルングの指環』のヴォータンやブリュンヒルデ、ヴェルディの『オテロ』や『ファルスタッフ』の題名役の良い歌手を見いだすのはいつでも難しいとされる。

オペラは他の多くの芸術形態から成立している。基本は音楽であるが、歌と台詞が付いて演じられることから演劇の要素をも持つ。また、上演する上で重要な要素と考えられる視覚的な舞台効果を得るため、絵画の要素も用いられている。こうした理由で、リヒャルト・ヴァーグナーは、このジャンルを「総合芸術」(Gesamtkunstwerk)と呼んだ。

歴史

オペラの成立

「オペラ」(opera)という単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味し、この語自体は同じ意味のラテン語opus」(単数属格形 operis)の複数形主格「opera」に由来する。今日「opera」は単独で歌唱によって進行される演劇または楽曲作品を意味するが、元来は「opera musicale」(音楽的作品)と呼んだものの省略から、この語義が生じた。

ルネサンス後期の16世紀末、フィレンツェカメラータにより古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった[1]。ギリシャ悲劇を模範に、歌うような台詞を用いる劇が考えられた。今日、オペラと見なされる知られる限り最古の作品は、1597年頃のヤコポ・ペーリ1561年 - 1633年)による『ダフネ』(Dafne)であるが、作品は現存しない。のちのペーリの作品である『エウリディーチェ』は1600年以降に作曲されたもので、今日に残る最初のオペラ作品である。

ペーリはしばしばオペラの発明者であると考えられているが、今日でも上演される最古のオペラは1607年マントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ1567年 - 1643年)作曲の『オルフェオ』である。この作品では先駆者の様式に従いながらも、調性や強弱の変化による緊張感を高めた、より劇的な表現が見られる。モンテヴェルディは後にヴェネツィアサン・マルコ聖堂楽長の地位を得て、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出す。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀にかけてナポリで隆盛を極めた。様式は朗唱だけでなく歌謡的なアリアの比重が高まり、伴奏の規模も拡大して、より充実した音響効果がみられるようになる。衣装や舞台装置も徐々に複雑できらびやかなものとなり、オペラ劇場は王侯貴族や富裕な市民の社交と娯楽の場としても発展した。

オペラ・セリア

もともとギリシャ悲劇の再来を目指した当時のオペラは、後にオペラ・セリア(正歌劇)と呼ばれるようになる(セリアは英語の「serious」の意)。題材はやはりギリシャ神話に求められることが多いが、ローマ時代などの人物を扱ったものも見られる。対立するオペラ・ブッファは喜劇であるが、セリアは悲劇とは限らない。ハッピーエンドのものも含まれており、そうした流れは後年の『トゥーランドット』などへ引き継がれている。

オペラ・ブッファ

これに対し、もっと世俗的な内容の作品がオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)である。もともとは、3幕もののセリアの幕間劇として演じられたコメディが独立し、規模拡大したものである。初期の幕間劇で今日まで残るものとして、ペルゴレージ1710年 - 1736年)の『奥様女中』(1733年)がある。18世紀には独立されたジャンルとして発展し、パイジエッロ1740年 - 1816年)、チマローザ1749年 - 1801年)、サリエリ1750年 - 1825年)などが多数の作品を残した。中でも、モーツァルト1756年 - 1791年)がダ・ポンテの台本に作曲した『フィガロの結婚』(1786年)、『ドン・ジョヴァンニ』(1787年)、『コジ・ファン・トゥッテ』(1790年)が有名である。

グルックによるオペラ改革

18世紀前半のバロック時代後期のオペラには、ドイツ出身でイギリスで活躍したヘンデル1685年 - 1759年)や、フランスのラモー1683年 - 1764年)などに優れた作品があったものの、本場イタリアでは、カストラートをはじめとした人気歌手たちの声と技巧をひけらかすことを第一の目的とし、筋の方は支離滅裂で珍妙なものも増え、劇としては堕落の様相を呈する傾向があった。また、バロック・オペラのスタイルも誕生から百数十年が経ち、制度疲労と硬直化を見せるようになった。そうした状況の中、18世紀後半に古典派音楽の台頭とともに登場したのが、ドイツ出身のグルック1714年 - 1787年)である。彼は、歌手のためにオペラがあるのではなく、オペラのために歌手が奉仕するような、あくまで作品とドラマの進行を第一とするような方向にオペラを再び立ち返らせ、ドラマの進行を妨げる余計な要素を一切廃したスタイルのオペラを書いた。当初はオーストリアウィーンで、後期はパリで活躍するが、当然のことながら旧守派と激しく衝突し、ことにパリでの争いは歴史的にも有名である(後述)。改革されたオペラの第1作は、ウィーン時代の1762年に初演された『オルフェオとエウリディーチェ』であった。パリ時代の作品には『オーリードのイフィジェニー』(1774年)、『包囲されたシテール (改訂版)フランス語版 』(1775年)、『アルセスト 』(1776年改訂版)、『エコーとナルシス英語版』 (1779年)、『トーリードのイフィジェニー』(1779年)などがある。

グルックの「オペラ改革」は、後の時代に大きな影響を与えた。

イタリア・オペラとドイツ・オペラ

何世紀もの間、イタリア・オペラが正統派オペラの形式であり、多くのオペラは、作曲者が主に英語やドイツ語を話していたとしても、イタリア語の台本に作曲された。

18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという認識が残っており、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用した。その一方で、今日名を残す多くのドイツ人作曲家が登場したが、たとえばグルックはイタリア語、フランス語のオペラは書いたが、ドイツ語のオペラ作品は書いていない。またヘンデルは多くのオペラを書いたが、ドイツ語のオペラは1曲のみである。

19世紀に入り、ようやくドイツ圏のオペラはドイツ語で書かれる形が定着したものの、前世紀のバッハに続いて、ブラームスブルックナーマーラーと一切オペラを残さなかった大作曲家が少なくない。 一応オペラは残しているが、今日ではほとんど上演されない(ただし他分野では人気の高い)ドイツ系作曲家となるとシューベルトリストシューマンメンデルスゾーンがこれに加わる。

ドイツ・オペラの誕生と興隆

最初の重要なドイツ語のオペラは、時代をさかのぼること17世紀前半、シュッツ(1585年 - 1672年)の『ダフネ』(1627年)と目されているが、楽譜は現在では失われてしまっている。

17世紀後半になると、ドイツ語圏各地に宮廷劇場ができるが、1678年に三十年戦争(1618年 - 1648年)の影響の少なかったハンブルクに公開オペラハウスが建設されると、ドイツ人作曲家によるドイツ語オペラが数多く上演されるようになる。ここで活躍した作曲家にはタイレ(1646年 - 1724年)、クッサー(1660年 - 1727年)、カイザー(1674年 - 1739年)、マッテゾン(1681年 - 1764年)などがいるが、特に有名なのはテレマン(1681年 - 1767年)であろう。彼は18世紀前半に多くのドイツ語オペラを書き、それらは大いに人気を博した。

18世紀の後半になると、フランスのオペラ・コミックやイギリスのバラッド・オペラの影響を受け、喜劇的な内容を持ち、レチタティーヴォの代わりに台詞の語りをもったジングシュピールが生まれる。この様式はヒラー(1728年 - 1804年)によって完成され、その後ハイドン(1732年 - 1809年)やディッタースドルフ(1739年 - 1799年)によって、より音楽的に充実したものとなった。

ドイツ語オペラにおける次の重要な作曲家はモーツァルト(1756年 - 1791年)である。中でも死の年(1791年)に書かれた『魔笛』は、ジングシュピールの様式による非常に優れた作品である。それまでのジングシュピールが台詞による劇の進行のところどころに歌を配した文字通りの「歌芝居」である傾向が強いのに対し、モーツァルトがウィーン時代の初期に作曲した『後宮からの誘拐』(1782年)は、すでに堂々たるオペラになっている(音楽が主、語りが従)。伝えられる逸話によれば、上演に接した神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトに対し「音符が少々多い」と感想を述べたところ、彼は「音符はまさに必要なだけございます」と答えたという。真偽はともかく、このジャンルに対する一般の認識と、作曲者の対抗心が対比されており興味深い。そのモーツァルトも、残した作品の比率としてはイタリア語作品が多くを占めるが、様式的にもイタリアオペラの伝統とは異質なこともあり、また生まれたザルツブルクも後年活躍したウィーンも当時の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」であり、モーツァルト本人も自らを「ドイツ人」であると認識しているなど(モーツァルト#ドイツ人論議参照)(そもそもハイドンやベルクを含めてオーストリア・オペラという呼び方が用いられることはほとんどない)、今日ではこれらもドイツオペラの枠で論じられることが多い[注 1]。『ドン・ジョヴァンニ』は初演後100年間でドイツ圏での上演6600回に対しイタリアでの上演は200回弱にすぎず、『コジ・ファン・トゥッテ』に至っては1816年から126年間、『フィガロの結婚』も1815年から20世紀まで、総本山ミラノ・スカラ座で一度も上演が行われないなど、イタリア人はこれらの自国語作品を殆ど受け入れようとはせず、影響も受けなかった[2]。さすがに現代においては、これほど極端な拒絶は行われていないが、それでもこれらの作品は、イタリア人よりはドイツ圏の歌手や指揮者が得意とする伝統(イタリア人であってもムーティジュリーニのようにドイツ音楽を得意とする指揮者)が残っている。戦後しばらくのミラノ・スカラ座も、これらの作品をワーグナー作品などとともに、ドイツ・オペラ主任として迎えたカラヤンに任せていた。

ドイツ語オペラの流れは、19世紀に入ってベートーヴェン(1770年 - 1827年)の『フィデリオ』(1814年)を生むが、真にドイツ・オペラをオペラ界の主要ジャンルとして確立させたのはヴェーバー(1786年 - 1826年)で、『オベロン』(1826年)や『魔弾の射手』(1821年)といった作品は、E.T.A.ホフマン(1776年 - 1822年)、シュポーア(1784年 - 1859年)やマルシュナー(1795年 - 1861年)の作品とともに、イタリアのセリアともブッファとも異なるロマンティック・オペラの特質を表しており、これはやがてヴァーグナー楽劇へと至ることになる。一方、ロルツィング(1801年 - 1851年)やフロトー(1812年 - 1883年)らはフランスでさらに発展したオペラ・コミックをジングシュピールの伝統と融合させた、ドイツ式オペラ・コミックを創り上げた。また同じくフランスで生まれたオペレッタウィーンで大衆的な支持を得て発展した。一方でヴァーグナーの登場もあり、ドイツ語圏のオペラは硬軟両面で急速に興隆していく。20世紀にかけてはリヒャルト・シュトラウスがその流れを集大成し、アルバン・ベルクが現代音楽としてのドイツオペラを樹立した。これらの作家は、ヴァーグナー、初期のシュトラウス、ベルクを除くと、悲劇好みのイタリアとは異なって、なべて喜劇やハッピーエンド作品を指向しているのが、モーツァルト(彼はオペラ・セリアですらハッピーエンドを好んだ)以来のドイツオペラの大きな特徴である。また、ファンタスティックな要素への傾斜も強く、イタリアオペラには滅多に登場しない魔法 (シンデレラ物語ですらロッシーニ作品では魔法抜きに脚色されている) が、『魔笛』『魔弾の射手』『ヘンゼルとグレーテル』『影のない女』、ヴァーグナーの諸作と目白押しである。

フランス・オペラ

イタリアでナポリ派オペラが発展していた17世紀半ば、フランスではリュリ(1632年 - 1687年)により、フランス語で歌われる独立したフランス・オペラの伝統が創始された。この伝統は18世紀前半にはラモー(1683年 - 1764年)に受け継がれ、豊かに発展した。18世紀中期になると、イタリアのオペラ・ブッファの影響をうけ、コミカルな内容を中心とし、レチタティーヴォの代わりに語りをもったオペラ・コミックが登場し、次第に人気を集めるようになる。1752年にイタリアから来たオペラ団がパリでペルゴレージの『奥様女中』を上演すると、ラモーに代表される伝統的フランス・オペラと、イタリアのオペラ・ブッファやその影響で生まれたオペラ・コミックのどちらが優れているかに関して知識人たちの間で大いに論争となったことがあったが、これは「ブフォン論争」と呼ばれる。この論争の後、オペラ・コミックはますます人気を高めるが、この論争で反ラモーの代表的存在だった、思想家としても有名なルソー(1712年 - 1778年)は、『村の占い師』(1752年)というオペラ・コミックを書いて自らのオペラ思想を世に問うた。

1773年にドイツ出身でウィーンで活躍していたグルックがパリにやって来て、彼の「オペラ改革」をフランス・オペラに持ち込むと、今度は旧来のイタリア・オペラを支持し、イタリアのピッチンニ(1728年 - 1800年)を擁した「ピッチンニ派」と、グルックの新式オペラを支持する「グルック派」の間で、ブフォン論争以上の激しい争いが起き、時に武力抗争にまで発展したと言われている。

やがて18世紀後期になると、オペラ・コミックはフランス革命期の社会的風潮の影響を受けてか、喜劇的なものよりも英雄的で雄大な内容を持つものに変化し、伝統的なオペラとの違いは単にレチタティーヴォのあるなし程度になってゆく。「革命オペラ」「恐怖オペラ」「救出オペラ」などとも呼ばれることのあるこのようなオペラ・コミックの代表者には、ゴセック(1734年 - 1829年)、メユール(1763年 - 1817年)、イタリア出身のケルビーニ(1760年 - 1842年)、などがいる。また、ドイツのオペラであるが、ベートーヴェンの『フィデリオ』もこの「救出オペラ」の一種である。後期のグルックがパリで活動したせいもあり、これらのオペラ・コミックを含めて18世紀後期のフランス・オペラはグルックの「オペラ改革」の影響を強く受けている。ケルビーニと同じくイタリア出身のスポンティーニ(1774年 - 1851年)はそうしたグルックの後を継ぐような、そしてより大規模なオペラ・セリアを書き、後のグランド・オペラの先駆となった。

19世紀前半になると、台詞による語りのないフランス・オペラは、5幕形式でバレエを含む大規模な形式の、グランド・オペラと呼ばれる様式となった。代表的な作曲家はマイアベーア(1791年 - 1864年)である。ヴァーグナーヴェルディもパリで自作を上演する際にはバレエを追加した(『タンホイザー』と『ドン・カルロス』)。この様式の大家としてはマイアベーアが人気を博し、『悪魔のロベール』(1831年)『ユグノー教徒』(1836年)、『預言者』(1849年)、『アフリカの女』(1865年)など、今日でも上演される作品を残している。他にはジャック・アレヴィ(1799年 - 1862年)の『ユダヤの女』(1835年)やベルリオーズ(1803年 - 1869年)の『トロイアの人々』(1858年)、アンブロワーズ・トマ(1811年 - 1896年)の『ハムレット』(1868年)、カミーユ・サン=サーンス(1835年 - 1921年)による『サムソンとデリラ』(1877年)と『ヘンリー八世』(1883年)、マスネ(1842年 - 1912年)の『エロディアード』(1881年)と『ル・シッド』(1885年)などがある。

オペラ・コミックも19世紀前半は隆盛を極め、ボワエルデュー(1775年 - 1834年)の『白衣の婦人』(1825年)、オベール(1782年 - 1871年)の『フラ・ディアヴォロ』(1830年)、『青銅の馬フランス語版』(1835年)、『黒いドミノ』(1837年)、『王冠のダイヤモンド英語版』(1841年)、エロルド(1791年 - 1833年)の『ザンパ』(1831年)、『プレ・オ・クレール』(1832年)といった人気作が生み出された。 オベールの『マノン・レスコー』(1856年)などの出現で、オペラ・コミックが喜劇的ではなくなってしまったので、新たな喜劇的オペラを望むパリ民衆の要望に応えて、より大衆的な通俗性や社会風刺、人気作のパロディーなどを持ったオペレッタが生まれた。特にオッフェンバック(1819年 - 1880年)の『地獄のオルフェ』(『天国と地獄』、1858年)は国際的に爆発的な成功を収めた。そのほか、『美しきエレーヌ』(1864年)、『青ひげ』(1866年)、『パリの生活』(1866年)、『ジェロルスタン女大公殿下』(1867年)、『ラ・ペリコール』(1868年)、『盗賊』(1869年)など続々とヒット作を生み出した。オッフェンバックはヨハン・シュトラウス2世にオペレッタの創作を勧め、ウィンナ・オペレッタ誕生につながっていく。

その後、オペラ・コミックの方でもビゼー(1838年 - 1875年)の『カルメン』(1875年)、オッフェンバックの『ホフマン物語』(1880年、未完)、シャブリエ(1841年 - 1891年)の『エトワール』(1877年)、『いやいやながらの王様』(1887年)、『教育欠如英語版』(1879)などの傑作が生まれている。

なお、マイアベーアとオッフェンバックは元々ドイツ人であるが、作品はあくまでパリを拠点にフランス語で書かれたため、フランス・オペラとして扱われる。ただし、オッフェンバック作品は本人の生前からウィーン上演が好評を博したこともあり、死後はドイツ語訳上演のほうが多かった時期もあったが、21世紀に入ると、マルク・ミンコフスキらによるフランス語上演も急速に盛り返し、もともと上演の盛んだったドイツ圏とあわせ活況を呈している。目下はフランスのリヨン国立オペラなどが上演に意欲的である[3]。なお、生地ケルンにはオッフェンバック歌劇場まで作られた。

19世紀前半に圧倒的人気を誇ったグランド・オペラも、「あらゆるオペラの命とりともいうべき流行の変遷」などから[4]、1850年頃により内面的な叙情性をもったドラム・リリクフランス語版ドイツ語版が現れる。グノー(1818年 - 1893年)とトマがその代表である。典型的な例として、グノーは『ファウスト』(1859年)、トマには『ミニョン』(1866年)、エルネスト・ショーソン(1855年 - 1899年)の『アルテュス王』(1895年)などがある。

この他によく上演されるフランスのオペラ作品として、マスネの『マノン』(1884年)、『ウェルテル』(1892年)、『タイス』(1894年)、『ドン・キショット』(1910)、シャルパンティエ(1860年 - 1956年)の『ルイーズ』(1900年)、ドビュッシー(1862年 - 1918年)の『ペレアスとメリザンド』(1902年)、モーリス・ラヴェル(1875年 - 1937年)の『スペインの時』(1911年)、『子供と魔法』(1925年)、フランシス・プーランク(1899年 - 1963年)の『カルメル派修道女の対話』(1957年)などがある。

19世紀前半のイタリア・オペラ

19世紀ヨーロッパの音楽界では、ロッシーニ(1792年 - 1868年)が『セビリアの理髪師』(1816年)、『アルジェのイタリア女』(1813年)、『チェネレントラ』(シンデレラ、1817年)などのオペラ・ブッファを量産するなど、引き続きイタリア・オペラが主流の座を占めた。ウィーンでもベートーヴェンはロッシーニの人気の足元にも及ばぬ状況であった。またオペラ・セリア様式の作品も、題材がギリシャ古典から中世以降の時代に下っても悲劇としては一貫しており、ドニゼッティ(1797年 - 1848年)の『アンナ・ボレーナ』(アン・ブーリン、1830年)、『マリア・ストゥアルダ』(メアリー・スチュアート、1834年)、『ランメルモールのルチア』(1835年)などが知られる。ベッリーニ(1801年 - 1835年)もまた『清教徒』(1835年)、『ノルマ』(1831年)、『カプレーティとモンテッキ』(1830年)などのセリアの作曲で知られる。もっとも、ドニゼッティはブッファの傑作『愛の妙薬』(1832年)でも有名であり、ロッシーニも『タンクレーディ』(1813年)、『オテロ』(1816年)、『湖上の美人』(ウォルター・スコット原作)(1819)、『セミラーミデ』(ヴォルテール原作)(1823)といったセリア作品や、『泥棒かささぎ』(1817年)といったセミ・セリア作品及び『ギヨーム・テル』(シラー原作、1829年)でも評価を得ている。

ヴァーグナー

オペラの発展は、ドイツではヴァーグナー(ワーグナー、1813年 - 1883年)、イタリアではヴェルディ(1813年 - 1901年)によって、19世紀に最も劇的な段階を迎えた。

ヴァーグナーは、通奏低音で伴奏される比較的小音量のレチタティーヴォに、フルオーケストラ伴奏によるアリアがところどころ挿入され、アリアの終了の度に熱心な聴衆の拍手喝采により演奏が中断されるという、伝統的なオペラの形式を拒んだ。代わって、レチタティーヴォとアリアが混然一体となり、また常にオーケストラにより伴奏されるという、通して歌われる様式を導入した先駆者となった(このため拍手は幕間にだけ行われるようになった)。さらにヴァーグナーはライトモティーフを大々的に使用した。ライトモティーフは、かつてヴェーバーの使用例もあるが、物語中の登場する登場人物、道具や概念などを音楽で描こうという音楽的な工夫である。例えばある人物が舞台に登場するときや、舞台にいなくても他の登場人物がその人物について触れるときに、その人物を表すライトモティーフを奏でることで、あたかも映像を見ているような描写的効果を得ている。

ヴァーグナーはまた、「楽劇」(独Musikdrama, 英Music drama)とよばれる独特のオペラで作品の大規模化ももたらした。最初の楽劇である『トリスタンとイゾルデ』(1859年)は、ただ単にオペラを革新したのみならず、その革新的和声語法は調性の崩壊へと道を開いた意味で、西洋音楽史全体から見ても非常に重要な作品である。

より重厚な響きを求めて大編成化したオーケストラに歌唱が埋没せぬよう、聴衆が舞台のみに集中して鑑賞するように、ヴァーグナーは自分自身の作品を上演する専用の劇場を必要とするに至り、バイエルンルートヴィヒ2世からの資金援助を受けて、オーケストラ・ピットを舞台の下に押し込めるという特異な構造のバイロイト祝祭劇場を建設した。そこで上演される『ニーベルングの指輪』(1854年、1856年、1871年、1874年)は、4つの楽劇の連作という巨大作品で、4夜を費やして演奏される。通して観ると約15時間程になり、空前の大規模作品であった(現在はシュトックハウゼンの『光』という1週間を要する作品があり、規模の上ではこれを上回る)。

ヴァーグナーの楽劇の題材は北欧神話や中世の物語を扱っており、その意味ではオペラ・セリアの延長線上にあるともいえる。中世ドイツのマイスター(職人の親方たち)を題材にした『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1867年)は唯一の喜劇的作品であるが、ロッシーニの喜劇に比べるとはるかに生真面目ともいえる。

ヴェルディ

ヴェルディはヴァーグナーのような音楽の革命家ではなかったが、オペラ・セリアの伝統的形式を継承発展させる形で作曲した。彼のオペラの登場人物は、まだ市井の一般人ではないが、神話的人物や叙事詩的英雄というわけでもなく、現代的な(彼の同時代という意味で)オペラ・セリアを再構築したということもできる。彼は初期の作品で、イタリア独立運動を支持する人々の愛国心を高揚させて大いに支持を受けた。ついで、登場人物の人間性に鋭く迫って劇的に表現する作風を確立し、音楽としてもドラマとしても完成度の高い中期の傑作群を創作した。1850年代に彼の最も有名なオペラ3作品、『リゴレット』、『イル・トロヴァトーレ』、『椿姫』を生み出した。グランド・オペラ風の『アイーダ』(1871年)と(オペラではないが)『レクイエム』(1874年)を最後に一旦リタイアした後、作曲家ボーイト(1842年 - 1918年)らのすすめで再度筆をとり、晩年の傑作『オテロ』(1887年)、『ファルスタッフ』(1893年)を残した。

ヴェリズモ・オペラ

ヴェリズモ・オペラは、イタリアで発生したヴェリズモ文芸運動がオペラに波及したものと見ることも、自然主義文学のオペラへの影響と見ることもできる。そこでは市井の人々の生活が、病苦・暴力といった暗部をも含む形で描写される。マスカーニ(1863年 - 1945年)の『カヴァレリア・ルスティカーナ』(1890年)は、シチリアの小村における悲劇であり、ヴェリズモ・オペラの初期の傑作である。またレオンカヴァッロ(1857年 - 1919年)の『道化師』(1892年)では、現実と仮想世界との区別の付かなくなった道化師カニオが舞台上で妻を殺してしまう。この傾向のオペラは1890年代から20世紀初頭にかけて多くの模倣・追随者を生んだ。

ロマン派オペラの終焉

19世紀終盤から、20世紀初頭にかけて、ロマン派オペラはヴェルディ、ヴァーグナーを受け継ぎ、最後の花を咲かせる。ドイツのリヒャルト・シュトラウス(1864年 - 1949年)は、『サロメ』(1905年)、『エレクトラ』(1908年)で大きな反響を得た。前者の官能を刺激する色彩的な音楽は賛否両論を生み、後者の大胆な和声は伝統的な響きに慣れ、それらを好む聴衆からは猛反発を受けた。しかし、シュトラウスのオペラ作家としての地位は固まり、詩人ホフマンスタールとともに様々な新機軸を出した。後年、円熟した擬古的な作風の『ばらの騎士』(1910年)、『ナクソス島のアリアドネ』(1912年)、『アラベラ』(1932年)などで音楽的完成度と大衆的な人気をともに確保して、モーツァルト・ヴァーグナーと並ぶ「ドイツの3大オペラ作曲家」と呼ばれるようになった。しかし、晩年の作品はロマン派の最盛期を過ぎた、残照のような位置づけであることは否めない。他にドイツ・ロマン派の最後を飾るオペラとしては、『ヘンゼルとグレーテル』(1893年)で知られるフンパーディンク(1854年 - 1921年)や、リヒャルト・ヴァーグナーの息子ジークフリート・ヴァーグナー(1869年 - 1930年)によるメルヘン・オペラ(: Märchenoper)、またそれ以外にプフィッツナー(1869年 - 1949年)の作品がある。また、ドイツ・ロマン派と近代のオペラの架け橋的存在として、ツェムリンスキー(1871年 - 1942年)、シュレーカー(1878年 - 1934年)、コルンゴルト(1897年 - 1957年)がいるが、このうちシュレーカーとコルンゴルトは、当時はシュトラウスに匹敵する人気を誇っていた。

イタリアのジャコモ・プッチーニ(1858年 - 1924年)は、ヴェリズモ・オペラの影響を受けつつも、イタリア・オペラの伝統に沿った作品を書いた。彼は庶民的な題材と美しいメロディをほどよくバランスさせ、親しみやすい中にも完成度の高い作品群を作って人気を博した。出世作『マノン・レスコー』(1893年)と続く『ラ・ボエーム』(1896年)は好評をもって迎えられ、彼の地位を確立した。『トスカ』(1900年)で頂点に立った後、『蝶々夫人』(1904年)では歴史的な失敗を喫したが、今日ではあらゆるオペラの中でも人気の高い作品として知られるようになった。

R.シュトラウスとプッチーニは、ロマン派のオペラの幕を引いたといってよいが、後者はより印象主義的な語法が濃圧である。その後、演劇と音楽が協調してできたオペラの役割は映画、あるいは今日ではテレビが担うことになる。

諸国の国民的オペラ

ロシア国民主義のオペラはグリンカ(1804年 - 1857年)により創始され、ロシア5人組の作曲家たちによって継承発展された。ムソルグスキー(1839年 - 1881年)の『ボリス・ゴドゥノフ』(1874年)、ボロディン(1833年 - 1887年)の『イーゴリ公』(1890)は名高い。また、リムスキー=コルサコフ(1844年 - 1908年)は『金鶏』(1907年)、『サトコ』(1898年)など多数の作品を残した。チャイコフスキー(1840年 - 1893年)は『エフゲニー・オネーギン』(1878年)や『スペードの女王』(1890年)で知られるが、バレエ音楽とともにむしろ西欧風の作品といえる。20世紀に入ると、ショスタコーヴィチ(1906年 - 1975年)が『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1934年)という近代オペラの傑作に数えられる作品を生んだ。

チェコでは19世紀後半に、ヴァーグナーの強い影響を受けていたスメタナ(1824年 - 1884年)が国民主義オペラを書き、ドヴォルジャーク(1841年 - 1904年)、ヤナーチェク(1854年 - 1928年)がその流れを引き継いだ。スメタナは『売られた花嫁』(1863年)、『リブシェ』(1872年)が知られている。ドヴォルジャークは『ルサルカ』(1901年)が有名だが、他にも多くのオペラを書いている。ヤナーチェクの『イェヌーファ』(1904年)、『利口な女狐の物語』(1924年)、『死者の家からドイツ語版英語版』(1930年)などは、20世紀に入って完成された作品だけあって、より近代的な感覚のオペラとなっている。

スペインではサルスエラとして知られる、民族音楽風味を取り入れた独自様式のオペラが作られた。これはフランスやドイツ・オーストリアのオペレッタに近い位置づけである。アルベニス(1860年 - 1909年)やファリャ(1876年 - 1946年)も作品を残している。『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『ドン・カルロ』『セビリアの理髪師』『カルメン』『フィデリオ』『パルジファル』『愛の妙薬』と、錚々たる人気オペラの舞台となってきたスペインだが、自国からこれらに匹敵する国際的人気作品は生み出していない。

アメリカ合衆国でも、ようやく20世紀に入ってからガーシュウィン(1898年 - 1937年)、メノッティ(1911年 - 2007年)らの活動により独自のオペラが創作されていった。

近代のオペラ

20世紀前半の先駆的なオペラは、当初はバルトーク(1881年 - 1945年)の『青髭公の城』(1911年)やヒンデミット(1895年 - 1963年)の『殺人者、女達の望み英語版』(1919年)のような表現主義の傾向を持っていたが、第一次世界大戦が終了してその影響が消え、平和な発展の時代を迎えると、新古典主義の台頭とともに、ドイツでは「時事オペラ英語版」というスタイルのオペラが興った。表現主義オペラが個人の内面的葛藤を中心に描くのに対し、時事オペラは現代の平凡な日常生活における人間関係を客観的に、醒めた視点から異化の手法なども交えて描くもので、ジャズカバレットレヴューといった当時の大衆音楽、芸能の要素も取り入れられ、従来のオペラというジャンルを超えるような面も持っていた。代表的な例の一つであるクルシェネク(1900年 - 1991年)の『ジョニーは演奏する』(1927年)はウィーンで大ヒットし、他にヴァイル(1900年 - 1950年)の『マハゴニー市の興亡ドイツ語版英語版』(1927年)、『三文オペラ』(1928年)、ヒンデミットの『行ったり来たり英語版』(1927年)、『今日のニュース (オペラ)ドイツ語版英語版』(1929年)などがある。

その後、時事オペラの流行が終わると、ヒンデミットは『画家マティス』(1935年)、『世界の調和ドイツ語版英語版』(1957年)という、より生真面目な内容のオペラを残している。

また、ストラヴィンスキー(1882年 - 1971年)は新古典主義時代に『夜鶯』(1914年)、『エディプス王』(1927年)、『放蕩者のなりゆき』(1951年)といったオペラを書いている。プロコフィエフ(1891年 - 1953年)は亡命時代に新古典主義と斬新なモダニズムのスタイルによる『三つのオレンジへの恋』(1919年)を書いたが、ソ連帰国後は社会主義リアリズム的傾向を持った『セミョーン・コトコ』(1939年)や、大規模な大作『戦争と平和』(1943年、第5版1952年)を残している。

新ウィーン楽派のオペラ

いわゆる「新ウィーン楽派」の作曲家のオペラには、完成された作品としてはベルク(1885年 - 1935年)の『ヴォツェック』(1925年)、シェーンベルク(1874年 - 1951年)には『期待』(1909年)、『幸福な手英語版』(1913年)、時事オペラの影響を受けた最初の十二音技法によるオペラ『今日から明日へ英語版』(1929年)があるが、更に未完の作品である前者の『ルル』や後者の『モーゼとアロン』等の無調、十二音技法のオペラが、戦後のドイツ・オペラの発展や、のみならずイタリアのダッラピッコラノーノらのオペラに与えた影響は計り知れない。『今日から明日へ』は1幕物の作品であるが、大規模で本格的なオペラで十二音技法による最初のものは、クルシェネクの『カール5世ドイツ語版』(1933年)で、これは時々上演される。

戦後オペラ史

第二次世界大戦後、前衛の世代はオペラの創造に極度に禁欲的な姿勢で臨むことになる。ブーレーズクセナキスなどの前衛作曲家は、規模も大きく、経済的事情と手間暇のかかるオペラというジャンルに否定的な姿勢を見せた。その一方で、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926年 - 2012年)は『鹿の王英語版』(1955年、改訂版1963年)、『若き貴族』(1964年)、『バッカスの巫女たち』(1965年)など、多くのオペラを書いている。ただし、彼のオペラ創作はあくまで同時代の音楽語法を自由に用いつつ19世紀的作劇法によった伝統的スタイルのオペラ、といったものであったため、現代音楽の愛好家よりも伝統的なオペラの愛好家に受け入れられた。

このほか、前衛の時代に書かれた最も重要なオペラの1つとして、ベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918年 - 1970年)の『兵士たち』(1965年)が挙げられる。

また、声楽家が積極的に現代音楽にかかわるというキャシー・バーベリアンのようなケースも稀であった。しかし、徐々に無調などの現代声楽法に通じた歌手が登場してくる。そして前衛の時代が終わり、前衛の世代に経済的基盤が出来たことを背景に、オペラという概念を「音楽劇」:Musiktheaterという側面から、作曲家一人一人が個別に考える時代に入った。

  • ルイージ・ノーノ(1924年 - 1990年)のように、いくつかの試行を経て出された政治的オペラの『不寛容』ののち「耳で聞く悲劇」という様式へ収斂させた『プロメテオ』(1982年)。
  • 数々の演奏家が別々に個別の音楽を奏でる「ミュジ・サーカス」というアイデアが存分に生かされた、ジョン・ケージ(1912年 - 1992年)の『ユーロペア1-5』は過去のオペラの断片の集合体という組み合わせである。
  • 一方フランスオリヴィエ・メシアン(1908年 - 1992年)は、『アッシジの聖フランシスコ』(1983年)によって、ヴァーグナーの『パルシファル』の延長線上とも言える巨大な宗教的神秘オペラを創作した。神秘オペラは次にシュトックハウゼンに引き継がれることになる。
  • 演出、衣装、振付、作曲、演技全てを一人で管轄し、ダ・ヴィンチ型才能を駆使するシルヴァーノ・ブッソッティ(1931年 - )の『ロレンザッチョ』(1968年 - 1972年)。
  • フィリップ・グラス(1937年 - )のミニマル音楽による最初期のオペラ『浜辺のアインシュタイン』(1976年)は、明確な筋を持っておらず、歌詞が「ドレミファソラシ」で歌われる。また音楽は、聴衆の入場が許される数時間も前から始まって、事実上聴けない音楽が奏される。
  • リゲティ(1923年 - 2006年)は自作の唯一のオペラ『ル・グラン・マカーブル』(1977年、第2稿1996年)で「地球最後の日」というSF的な素材を現代風の歌劇にアレンジすることに成功した。
  • 「オペラはストラヴィンスキーで終わった。これからは音楽が劇を操作する“音楽劇”でなくてはならない」という欲望を実らせたルチアーノ・ベリオ(1925年 - 2003年)の『オウティス』。
  • 25年以上をかけて1週間かかる長大な自叙伝的オペラを完成させたカールハインツ・シュトックハウゼン(1928年 - 2007年)の『光』(1977年 - 2003年)は歌手のみならず、器楽奏者も主役になる。また、この連作は後の作品になるほど明確な粗筋は見られなくなる。
  • 人造言語に基づき、原言語の意味を過激なパフォーマンスで問うハンス・ヨアヒム・ヘスポスの『イオパル』。彼の器楽作品は音を出さない演技や行為も音楽として扱い、のちにハンス・ツェンダーロルフ・リームに引き継がれるが。これをマウリシオ・カーゲル(1931年 - )の諸器楽作品と同じく「ムジーク・テアター」として扱う音楽学者もいる[5]
  • 世紀末が近づくとモートン・フェルドマン(1926年 - 1987)が1977年、サミュエル・ベケットの台本にもかかわらずケージと同じ完全なアンチ・オペラに仕立てた“Neither「・・・でもなく」”に始まり、1980年代後半から1990年代にかけて初演されたアドリアーナ・ヘルツキーの『ルル』の焼き直しに近い『ブレーメンの自由』やヘルムート・ラッヘンマン(1935年 - )の特殊奏法の総体系に近い『マッチ売りの少女』(1997年)は、電子音を含むすべての現代作曲技法の使用や筋書きなしの台本の使用、従来のイディオムの徹底的な不使用など、21世紀のオペラのあり方を先取りするようになった。

しかし、以前同様に台本ありのオペラを書く作曲家の層も厚く、両者の拮抗が21世紀に入っても続くと見られている。近年でも暗譜不可能な場合はボーカル・スコアを読みながら舞台に立つ歌手も多く、この点に関しても賛否両論に割れている。近年のシュトックハウゼンは厳格に「暗譜」を指示しているが、これは視覚的にも大きな効果を上げる一方、大量の練習時間を必要とし、肉体的疲労も大きい。

オペラ創造をライフワークにするといったシュトックハウゼン松平頼暁(1931年 - )、ヘンツェのような存在も、世界中何名か見られる。


注釈

  1. ^ 「スタンダード・オペラ鑑賞ブック」全5巻(音楽之友社1998)、「オペラ・ガイドブック」(成美堂出版2008)、堀内 修, 石戸谷 結子編「オペラ・ハンドブック」(三省堂2009)など、オペラをイタリアオペラとドイツオペラに分けて紹介した書籍は例外なくモーツァルト全作品を後者に入れている(それ以外は国別分類をしないか、古典派として国別とは別の枠を設けている)。また、武田好「イタリアオペラに行こう」(2010年日本放送出版協会)、「イタリアの都市とオペラ」(2015年水曜社)、河野典子「イタリア・オペラ・ガイド」(星雲社2017)など、イタリアオペラ入門書の多くはモーツァルトには触れていない。

出典

  1. ^ 松田 亜有子『クラシック名曲全史 ビジネスに効く世界の教養』ダイヤモンド社、2019年10月3日、39頁。ISBN 9784478109212 
  2. ^ 水谷 彰良「新イタリア・オペラ史」音楽之友社、2015年、162ページ。本書はイタリア語で書かれたオペラはイタリアオペラと呼ぶべきという主張からモーツァルトにも筆を割いている。
  3. ^ 季刊誌「OPERA」の欧州歌劇場上演スケジュール、雑誌「音楽の友」の海外ニュースなど
  4. ^ 『オペラ史(下)』P476~477
  5. ^ dtv-Atlas zur Musik、Deutscher Taschenbuch Verlag、日本語訳は白水社から出ている。
  6. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」18ページ音楽之友社、2014年
  7. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、106ページ。
  8. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、107ページ。
  9. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」117ページ音楽之友社、2014年。
  10. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、129ページ。
  11. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、181ページ。
  12. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、30ページ。
  13. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年182ページ。
  14. ^ UNESCO - The practice of opera singing in Italy” (英語). ich.unesco.org. 2023年12月9日閲覧。
  15. ^ 江戸時代の日本で歌われたオランダ歌曲 - International Association of Music Libraries, Archives and Documentation Centres Japanese Branch
  16. ^ GIOVANNI VITTORIO ROSI'S MUSICAL THEATRE:OPERA, OPERETTA, AND THE WESTERNISATION OF MODERN JAPAN1 p.9
  17. ^ 増井 1984, pp. 18–21, 二人の世界的プリマ・ドンナが続いて来日した.
  18. ^ 増井 1984, pp. 100–113, 第2章第1節. 明治三十六年の「オルフェウス」上演.
  19. ^ 2018年1月6日23時NHKEテレ放送ETV特集シリーズよみがえるアーカイブ第1回「日本とイタリア」
  20. ^ a b c 日本(語)のオペラと「不気味の谷」
  21. ^ イルデブランド・ピッツェッティ歌劇『大聖堂の殺人』カラヤン指揮、ヴィーン国立歌劇場によるCD(POCG-10096/7)の解説書、6、7頁。
  22. ^ 野村三郎「ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで」音楽之友社、2014年、187、188ページ。
  23. ^ “小澤征爾さんに米グラミー賞=長野でのオペラ公演、渡辺さんは及ばず”. 時事ドットコム. (2016年2月16日). オリジナルの2016年2月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160224084216/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016021600087 2016年2月16日閲覧。 
  24. ^ The History of the Opera Dress Code





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