食養会からマクロビオティックへとは? わかりやすく解説

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食養会からマクロビオティックへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 20:20 UTC 版)

桜沢如一」の記事における「食養会からマクロビオティックへ」の解説

如一が言うには、1924年には事業老獪乗っ取られたために東京へ移り如一別の書でいうにはもっと大きな会社小型機器作ってデブリ社が圧迫されたのであり、他の人が言うところでは大震災のため商売から手を引いた石塚死後伸び悩んでいた同会の復興指導専念する1927年には『日本精神生理学』、翌年伝記石塚左玄』や「食養講義録」を食養会から出版する。「食養講義録」は『食養序論』からはじまり、食養言論I』では石塚唱えたナトリウム・カリウムバランス論が解説され、IIでは日本の伝統食、栄養動物性植物性病気に及ぼす影響といったことが論じられIIIでは食養による健康と幸福についてである。残りは『食養料理法』および『食養療法』である。 1929年には食養成果世界知らしめるべく無銭旅行試みる。如一自身病弱克服にあたり東西医学ではどうにもならず、偶然の出会いである正し食物によって健康を回復しその普及努めるが、事あるごとに西洋医学による妨害があるため「西洋医学根拠地爆破企て単身渡欧し、事をしならずんば自爆あるのみ〔ママ〕」とその春、決意したであった食費だけでも当時300円はかかる16日間のシベリア鉄道を、握り飯携え1円足らずお金乗り越えていった。パリに着くとすぐに筆を執り執筆業目指したが、当初収入にならず、割れ米を買い、郊外雑草集めイチバ捨てられ野菜葉っぱ集めるといった生活を3年過ごしたが、後になってみると如一にとって懐かしく楽しい思い出であったソルボンヌ大学パスツール研究所で学ぶ。当時パリ玄米入手するのは不可能であり、苦労してイタリアスペインから輸入した1931年には本を出版しパリプロン社より『花の本』(英語訳あり)ヴラン社より『東洋哲学および科学根本無想原理』(Le Principe Unique de la Philosophie et de la Science d'Extreme-Orient)、訳書の『歎異抄』、『摩訶般若波羅蜜多心経』、また他より『東洋医学』『哲学および科学限界に従って切断せる世界断面』『分光学東洋哲学』を出版し各種新聞や雑誌鍼灸華道柔道、など東洋について論じた著作売れ医者病人訪問するうになると生活は豪華となった東洋思想紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交パリでは自らの医学的な理論治療法展開し1935年12月にはそれが勝利をおさめたとみて帰国する。この1935年までの渡仏の間には日本帰るたびに、軍の参謀本部へ赴き、荒木貞夫や後の総力戦研究所所長飯村穣説得し、また軍部にて講演試みたため右翼から襲われたが、最終的にはそれらをまとめ、軍部糾弾する日本亡ぼす者はダレだ』を出版し、危険を避けるためにフランスに渡るなど反戦運動尽くす。 1936年桜沢理論基盤となる陰陽についての『根本無双原理・易』、神道においてアマテラス食事司るウケモチについての『自然医学としての神道』を出版1937年には食養会会長就任する。会の月刊誌購読者は1万人、『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねベストセラーとなる。 身に迫る危険を緩和するために、久邇宮朝融王伏見宮一家徳川家松平家などの健康指導行ったり、医学家、哲学作家として活動する大量著書出版が始まる。1931年にルネ・アランヂイの『西洋医学没落』『西洋医学新傾向』を翻訳、その解説本出版1937年にはアレキシス・カレルの『人間-この未知なるもの』の翻訳岩波文庫から出版し、その解説出版した水島博士により天皇家にも献上されとのこと)。この書は当初3年間で165版を重ねた1932年には思想習慣東西反対であるという『白色人種を敵として戦はねばならぬ理由』を出版1939年食養会本部付属瑞穂病院の閉鎖機に同会を脱退食養会復興成功し会を理事会一任しとのことであるがその後乗っ取り団に乗っ取られとのことである(食養会#雑誌参照)。またこの頃三女死亡した。 この時期執筆活動が活発であった。すべてではないが紹介していくと、1939年の『砂糖の毒と肉食の害』は砂糖は単に嗜好品なので栄養のためには不要であり、病弱者作り結核虫歯つながり同様に肉食の害も説いた1940年の『戦争に勝つ食物』は健康第一、そのためには食物第一であるとして食養説き食べられる野草の一覧まで備えている。同年『米の知識炊き方・食べ方』は、米の歴史土壌の力を使う育て方収穫玄米分付きと白米とで栄養減っていく様、買い方保存法炊き方やよく噛むとことと説明し日本の食政策問題点説いている。1940年の『随筆食物倫理』は、戦争遺伝、愛、幸福、塩など様々な語り口から食養説いた1940年の『病気治る食物』では、病気食物との関係についてであり、100ページ以上にわたる様々の病気食事療法一覧がある。ほか『健康の六大条件』『食物による健康と幸福』『人間栄養学医学』『大陸版・正し食物作り方』など。「生命食物叢書」は食養会から出版され正し食物について』(1篇)『哺乳粉について』(2)食養入門(3)亡び行く民族(4)身土不二原則(6)肺結核食物療法(7)西洋医学没落解説(8)家庭食療読本(9)厚生省指導原理としての根本無想原理(11)『食療病人食の作り方(12)蓄膿食物療法(13)食養的で簡単なおやつの作り方(14)食物療法道しるべ(15)がある(5は10出典『自然医学』に記載がなく、1415それぞれ表紙記載がある)。『猶太財閥世界分布其の動向』を出版し、『国際秘密力の研究』への寄稿などユダヤ人問題にも注目していた。 1940年9月無双原理講究所を滋賀県大津市開設し健康学園といったイベント開催する。。陰陽様々な語り口解説した無双原理研究」のシリーズ出版する。『宇宙秩序』(第I期第1篇)『不思議な世界』(I2)『人間秩序』(I3)『うさぎのピピ』(I4)『一つ報告』(I5)『わが生命線爆破さる』(I6)『ウナギ無双原理』(I7)『自然科学最後』(I8-12)『生命現象環境』(II-9)『新し栄養学』(II-2-8)『最後にそして永遠に勝つ者』(II-9)『パストゥール審判』(II-10)『食物人生』(II-11,12)『PU中国四千年史』(III-1,2)『バイキンの国探険』(III-3-5)『未開人精神日本精神』(III-6-12)『兵法七書の新研究』(IV1)『PU経済原論夢と情熱世界』(IV2)などである。 1941年3月には国際問題言論復帰し、『健康戦線第一線に立ちて』を出版して再び筆は過激となり、暴力身辺に及ぶ。この書は反戦訴え敗戦警告し10万部は流通した。その表紙開いた扉ページの、「日本指導者諸君につぐ・・敗れたフランス責任者銃殺されたる事を銘記せよ」とはじまり統計をもとに病気死産多さ訴え食事重要性訴えたのである5月には『日本亡ぼす者はダレだ』が発禁書となり、続いて警視庁検事局などで留置され憲兵隊によって残虐な取り調べを受け、軍部圧迫右翼迫害日に日に増していった。1942年には戦争開始されることになる。 1944年にはアナトール・フランスロマン・ロランを主とした『永遠の子供』(V2)と、軍国主義粉砕する思想盛り込んだ心臓入れ替える法』(V1)を出版するソ連日米仲裁をさせるようソ連に向かうが、反戦論者として最終的に刑務所留置され拷問受けている間に日本敗戦し、1945年9月ダグラス・マッカーサー指令があり釈放されマッカーサーに向け「特高廃絶せよ」「神道廃絶せよ」などの一文を送る。10月ナゼ日本敗れたか』(VI-1)を出版。その書によれば陸軍病人死亡者15倍に達し、「一億玉砕」と叫びたてる実行不可能な思想や、また機械技術悪さ挙げ、それらは教育の不完全と、身体の不健康から来ており、その改善のためにはもちろん食糧問題中核となっているが、ほかにも自らで考え能力奪っているドレイ根性を防ぐための言論の自由確保や、判断力創造力能率向上させるための政策への提言含んでいる。極秘出版であり各人贈呈された。12月には東京都芝区新生活協同組合起こし民主主義講座を開くようになる1948年には新聞世界政府』を発刊しアメリカ世界連邦建設運動加盟し戦後世界連邦運動取り組み各地講演会ラジオ放送行った。F.S.C.ノースロップの『東洋と西洋会合』(上巻西洋哲学下巻東洋思想東西対立克服論)を翻訳し桜沢思想ノースロップとのやり取りである『平和と自由の原理』を出版。『天国の鍵』『人間革命の書』なども出版している。この『会合』はGHQ最重要の書として推薦していたのだが、『会合下巻は、アメリカ大使館から450冊の大量注文があり納品したという しかし、皮肉にも日本亡ぼす者はダレだ』を原因として公職追放を受け、日吉にメゾン・イノグラムス(M.I. 現在の日本CI協会)を開く。傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地訪ねマクロビオティック普及注力する。その様子は『世界無銭武者旅行第一期五ケ年の報告 東洋思想西洋思想対決』や妻との共著日本女性最初中央アフリカ横断記-らいてう先生の手紙』にまとめられている。 1955年には、アフリカへ向かい翌年熱帯性潰瘍にかかるが食養回復しアルベルト・シュヴァイツァー博士会見し西洋医学栄養学限界とその改善進言する受け入れられなかった。2月フランスに向かうと昔にまいた種が育っており、パリでは三十数軒化学肥料使っていない食品店があり、他の店では普通に玄米醤油まで売られていた。1958年にはパリ市から表彰され名誉市民賞を受賞した如一書いている。フランス鍼灸協会大冊の中では如一触れられページかは著作引用されていた。1957年にはパリのドブレッス社から『ジャックミチ』を出版し、これは1970年代にヴラン社へと発行引き継がれ版を重ね、また英語、ドイツ語オランダ語イタリア語にも訳された。その内容は、2人の「未開」のエレホン人が西洋文明という「ジャングル」を渡り歩くというもので、フランスの文化批判したものだが、多くの者は痛快正しいものだと受け入れ誇り高い者は憤慨した例えば「西洋七不思議」の章では、インドマイダン公園では牛が散歩していて神の象徴とされ誰も殺さないが、西洋では殺し搾取するというエピソードがある。これは最終章ではこう続いている。肉食生活が生んだ生理学的な体質科学唯物的な見方を生み、そうした西洋文明世界植民地化生活様式こそ変えたが、未開東洋では無限、永遠宇宙観持っているがために、唯物的有限西洋見方では内包できず、逆に遂に有限内包することのできる無限の世界観を持つ未開人反抗となったその後無銭武者旅行第二期として5年欧州過ごし、また南北米、アジアアフリカ諸国でも過ごすという計画があった。ベルギースイスドイツスウェーデンイタリアイギリス休みなく講演し欧米50余り団体組織され食品店、レストラン加工工場などが生まれ10国語あまりで著書訳された。 1952年の『永遠少年』がベンジャミン・フランクリン紹介であり、1958年の『続・永遠少年』ではマハトマ・ガンディー紹介であり、印税は働く少年少女充てられると記されている。

※この「食養会からマクロビオティックへ」の解説は、「桜沢如一」の解説の一部です。
「食養会からマクロビオティックへ」を含む「桜沢如一」の記事については、「桜沢如一」の概要を参照ください。

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