久邇宮朝融王
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久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄[2]、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。
注釈
- ^ 軍人と異なり、名誉職である。
出典
- ^ “【ボンボニエールの物語vol.48】続・皇族 お印の物語”. TSUGUMI JAPAN&CULTURE 日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト (2021年7月14日). 2022年12月13日閲覧。
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- ^ 大正14年宮内省告示第4号(『官報』第3727号、大正14年1月27日)(NDLJP:2955875/4)
- ^ 浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』 角川書店、2005年、角川文庫、2013年 - 朝融王事件
- ^ a b 「菊栄親睦会」除名も検討 久邇朝融のカネ・女性問題 錬金術と「女道楽」 社会学的皇室ウォッチング!/101 成城大教授・森暢平 週刊エコノミストOnline、2024年2月1日
- ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.397
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- ^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
- ^ 『朝日新聞』1952年3月24日夕刊一面。
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- ^ 昭和17年10月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第957号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072087200 で閲覧可能。
- ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
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- ^ 『官報』第2943号「叙任及辞令」大正11年5月26日(NDLJP:2955060/3)
- ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
- ^ 『官報』第1619号「叙任及辞令」昭和7年5月26日(NDLJP:2958090/3)
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- 1 久邇宮朝融王とは
- 2 久邇宮朝融王の概要
- 3 年譜
- 4 血縁
- 5 参考文献
久邇宮朝融王
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詳細は「久邇宮朝融王」を参照 3代朝融王(あさあきらおう)は、1901年(明治34年)に誕生。婚約破棄事件もあったが、1925年(大正14年)に伏見宮博恭王の娘である知子女王と結婚。1929年(昭和4年)に宮家を相続する。海軍兵学校卒業。終戦時には、海軍中将。終戦後の1947年(昭和22年)に妃知子女王が薨去。 同年、GHQの指令により10月14日皇籍離脱し久邇朝融となった。いろいろな事業に手を染めるが、戦後の荒波を受けてどれもうまくはいかなかった。1959年(昭和34年)に58歳で逝去した。 妃との間に邦昭王、正子女王、朝子女王、通子女王、英子女王、朝建王、典子女王、朝宏王の三男五女を儲ける。
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