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ドイツ民主共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 00:10 UTC 版)

(東ドイツ から転送)

ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、: Deutsche Demokratische Republik; DDR: German Democratic Republic; GDR)、通称東ドイツ(ひがしドイツ、: Ostdeutschland)は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツソビエト連邦占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部にかけてのアメリカイギリスフランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。

目次

概要

ドイツ民主共和国は社会主義国[1]であった。政治体制は一党制ではなく反ファシズムを最大公約数とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が寡頭政治政党として指導権を有していた[2]。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソビエト連邦の衛星国であった。

また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。

経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・東ヨーロッパ社会主義諸国でも最も発展し、一般家庭への電化製品の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の香港人一般庶民程度)を実現したと言われる。そんな事もあり「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていた。また女性の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。

1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。1987年には死刑を廃止した。

1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった。もっとも、この間に即金で買うだけの貯金ができるということで、不満ばかりではなかったといわれる。

一方、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。

なお、一定期間無職でいると、自分に合う、合わないといった職種選択権が無い、問答無用の強制労働が科せられていた。

歴史

ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
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ザールダンツィヒズデーテン
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第二次世界大戦後
連合国軍政期 + 東部領土
ドイツ人追放
西ドイツザール東ドイツ
ドイツ再統一
再統一後のドイツ
関連項目
オーストリアの歴史

ドイツ ポータル
 v • d • e 

第二次世界大戦を経て、ドイツは・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。

形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第1次五カ年計画が開始された。計画実施のために中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県 (Bezirk) へと再編された。

1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6,000人以上が逮捕された。

無謀な計画経済農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡していった。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。こうして労働力の流出を強制的に防いだこともあって経済は発展し、1960年代から1970年代初頭にかけて「社会主義の優等生」と呼ばれるまでに成長、1972年には西ドイツと東西ドイツ基本条約を締結し、国交を樹立した。

しかし、1973年オイルショックなどによって東側諸国全体の経済が停滞する中、エーリッヒ・ホーネッカー政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の東欧革命により他の中東欧の共産主義国が次々と民主化すると、オーストリアとの国境を開放したハンガリーなどを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。1989年10月9日、南部の都市ライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年11月9日ベルリンの壁の開放に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には通貨統合、そして10月3日にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。




ドイツ民主共和国
Deutsche Demokratische Republik
連合軍軍政期 (ドイツ) 1949年 - 1990年 ドイツ
東ドイツの国旗 東ドイツの国章
国旗 国章
国歌: 廃墟からの復活
東ドイツの位置
公用語 ドイツ語
首都 東ベルリン[1]
元首[2]
1949年 - 1960年 ヴィルヘルム・ピーク(初代)
1990年 - 1990年 ザビーネ・ベルクマン=ポール(最後)
閣僚評議会議長
1949年 - 1964年 オットー・グローテヴォール(初代)
1990年 - 1990年 ロタール・デメジエール(最後)
面積
1990年 108,333km²
人口
1990年 16,111,000人
変遷
成立 1949年10月7日
ドイツ再統一 1990年10月3日
通貨 東ドイツマルク
時間帯 UTC +1(DST: +2)
ccTLD .dd
国際電話番号 37
  1. ^ 正式には「ベルリン、ドイツ民主共和国の首都 (Berlin, Hauptstadt der Deutschen Demokratischen Republik (DDR))」とされた。
  2. ^ 元首は長らく国家評議会議長が務めたが、東西ドイツ統一直前に憲法が改正され、人民議会議長が国家元首扱いとなった。最後の国家評議会議長は1989年から1990年まで在職したマンフレート・ゲルラッハである。
  1. ^ 東ドイツ憲法第1条「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.)
  2. ^ 東ドイツ憲法第1条「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」(Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.)
  3. ^ 先に戦前の名称を継承して設立された西側のルフトハンザと対抗したものの結局敗れ、新たに設立されたインターフルークが国営航空会社としての役割を継承した。
  4. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98
  5. ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P80-81
  6. ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』P155-P156、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
  7. ^ ただし、ビールコーヒーなどの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代にはチコリの根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずにビール純粋令を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。
  8. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159
  9. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
  10. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P74-75
  11. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101
  12. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97
  13. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51
  14. ^ サイマル出版会編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268
  15. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97


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