ペレストロイカとは? わかりやすく解説

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ペレストロイカ【(ロシア)Perestroyka】

読み方:ぺれすとろいか

再編立て直しの意》ソ連ゴルバチョフ政権1986年以降推進した改革政策スローガンの一。


ペレストロイカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 00:40 UTC 版)

ペレストロイカ: перестройка [pʲɪrʲɪˈstrojkə] ( 音声ファイル) ピリストローイカロシア語ラテン翻字: perestroika)は、ソビエト連邦ゴルバチョフによって、1988年1月1日から守旧派による1991年のクーデター発生までにグラスノスチと共に進められた政治体制の改革[1]。ペレストロイカで進んだ市民意識によって、クーデター自体は失敗したが、ペレストロイカが中止され、ソ連解体に繋がった[1]。ロシア語で「再構築(再革命)[注釈 1]」を意味する。外交では冷戦終結、初の核軍縮条約、ドイツ統一がなされ、ソ連国内では表現の自由、集会の自由、信教の自由、出国の自由、選択肢のある選挙、複数政党制など、市民の権利と自由が獲得された[1]


注釈

  1. ^ 「пере(ペレ)」は「再び」を意味する接頭辞、「стройка(ストロイカ)」は「構築」「建設」を意味する単語
  2. ^ : Демократия, Мир, Перестройка, Ускорение
  3. ^ : re-structuring
  4. ^ : re-construction

出典

  1. ^ a b c 「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」 ゴルバチョフ氏インタビュー詳報:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2022年2月1日閲覧。
  2. ^ 「ペレストロイカとは何か・シェワルナゼ回顧録を中心に」”. 時事総合研究所. 2023年4月4日閲覧。
  3. ^ 日本放送協会. “ぼくは見た、国の消滅を | 特集記事”. NHK政治マガジン. 2022年11月13日閲覧。
  4. ^ Shimazaki, Susumu; 島崎晋 (2000). Me kara uroko no Tōyō shi (Dai 1-han ed.). Tōkyō: PHP Kenkyūjo. ISBN 4-569-61241-5. OCLC 47093387. https://www.worldcat.org/oclc/47093387 
  5. ^ Ikki ni yomeru sekai no rekishi = World history at a glance : Dokokara yondemo omoshiroi. Satoshi Tsuruoka, 聡 鶴岡. Tōkyō: Chūkei Shuppan. (2004). ISBN 4-8061-2125-8. OCLC 675126059. https://www.worldcat.org/oclc/675126059 
  6. ^ Soviet October Revolution Parade, 1987 Парад 7 ноябряYouTube(17分40秒あたり)
  7. ^ Nuclear Energy Agency/ International Atomic Energy Agency, "The Red Book Retrospective" and "Uranium: Resources, Production and Demand"
  8. ^ 廣瀬陽子「ペレストロイカからカタストロイカへ」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 132ページ


「ペレストロイカ」の続きの解説一覧

ペレストロイカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:16 UTC 版)

ミハイル・ゴルバチョフ」の記事における「ペレストロイカ」の解説

本人南ロシアなまり(アクセントの位置微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセス始まった改革始まった)」という言葉多用正規的なロシア語表現ならば「Процесс начался(プロツェース・ナチャルシャー)」となるが、多少違和感覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行次第行き詰まる改革合わせるかのように自分思い通りとは違う方向物事進んでいる状態」の意味含んで使われるようにもなった。 書記長就任から8か月後の1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、当時アメリカ大統領ロナルド・レーガン米ソ首脳会談を行う。この会談核軍縮交渉加速相互訪問などを骨子とする共同声明発表した1986年4月ゴルバチョフロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し本格的なソビエト体制改革着手する4月発生したチェルノブイリ原発事故契機に、情報公開グラスノスチ)を推進する当初レーガン西側保守派ゴルバチョフ意図アンドロポフ指向したような従来社会主義修正、あるいは社会的規律引き締め過ぎず西側対す軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒懐疑論持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった経済改革では、社会主義による計画経済統制経済に対して個人営業協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革志向するようになり、1987年8月国営企業法を制定した。ペレストロイカは次第単なる経済体制改革立て直し留まらずソ連硬直化した体制制度全体抜本的改革革命移行しそれに伴い政治改革ソ連歴史見直しへ進行していった。その中で、自らが電話でその解放伝えたサハロフ博士はじめとするソ連国内反体制派異論派)が政治的自由獲得しスターリン時代大粛清犠牲者対する名誉回復進められた。ゴルバチョフ自身ソビエト連邦の崩壊その日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」「新世界秩序」 といった新たな価値によって国内政治および外交政策において大胆な転換実行していった。 1986年7月ゴルバチョフウラジオストク演説アフガニスタンからの撤退と中ソ関係改善表明した10月にはアイスランドレイキャビクにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカの大統領ロナルド・レーガン掲げていた戦略防衛構想SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意成立していた。このことが、1987年12月成立する中距離核戦力全廃条約INF全廃条約)に繋がっていく。 ゴルバチョフ信仰の自由認め姿勢打ち出し1988年4月29日ロシア正教会総司教ピメンら6人の指導者会談したソ連政府最高指導者教会指導者会談したのは1943年以来のことで、ゴルバチョフ会談で、ソ連過去教会信者過ちおかしたことを認めた1988年10月ゴルバチョフグロムイコ引退伴って最高会議幹部会議長就任し国家元首となる。 同年12月最高会議改組し、人民代議員大会設置する憲法改正法案採択される。この頃より守旧派接近余儀無くされる1990年3月求心力低下したゴルバチョフ複数政党制強力な大統領制導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)する憲法改正法案人民代議員大会採択させた。 3月15日人民代議員大会において実施され大統領選挙において、ゴルバチョフ初代ソビエト連邦大統領選出(これにより、ソビエト連邦国家最高責任者書記長から大統領移行した)されたが、ゴルバチョフロシア導入した1991年ロシア大統領選挙のような直接選挙では無く人民代議員大会による間接選挙選出されたことは、ゴルバチョフ権力基盤弱める要因となった副大統領にはシェワルナゼ候補考えていたが、シェワルナゼは「独裁迫っている」と守旧派対す危機訴えて1990年12月外務大臣電撃的辞任して世界中震撼させた。ゴルバチョフゲンナジー・ヤナーエフ政治局員副大統領指名した一方で人格面での問題糾弾され、リガチョフとの争い敗れてモスクワ市共産党第一書記政治局員候補から解任されボリス・エリツィン人民代議員として復活し1991年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領となり、さらには共産党から離党宣言して党外改革派代表としてゴルバチョフ地位を脅かすようになっていく。 国内政策での保守派への妥協にも関わらずゴルバチョフ政権によるソ連外交政策転換明確な形で続けられた。従来ブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なりハンガリー事件プラハの春起こったソビエト連邦軍による民主化運動弾圧はもう起こらないことを示した事実1989年ポーランドにおける円卓会議起点とする一連の東欧革命に関してソ連軍事的行動行わず1990年には東ドイツ西ドイツへの統合ドイツ再統一)まで実現することになったゴルバチョフベルリンの壁崩壊前に当時東ドイツの最高指導者であるエーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告発する一方、壁崩壊後急浮上した西ドイツによる東ドイツ吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツヘルムート・コール首相示した巨額の対ソ経済支援受け入れることで、ドイツ再統一承認与えた冷戦の終結東欧革命によってソ連東ヨーロッパでの覇権失い各国からの撤退強いられた軍部生産縮小強いられた軍産複合体中にはゴルバチョフシェワルナゼへの反感強まり新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して共産党内の保守派接近した共産党でも、ソ連国家における党の指導性放棄されることに警戒感強まり従来改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフ圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼ突然の辞任つながったゴルバチョフ自身保守派への配慮から1991年2月リトアニア首都ヴィリニュス発生したリトアニア独立革命対すソビエト連邦軍治安警察による武力弾圧承認せざるを得なかった(血の日曜日事件)。 また、極東においてもウラジオストク演説以後緊張緩和進み1989年5月中国訪問して長年中ソ対立終止符打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動高揚する中で行われた1990年8月湾岸戦争では国際連合安全保障理事会武力行使容認決議賛成して米ソ和解演出する一方アメリカイラク停戦仲介した(ゴルバチョフの案は当時アメリカ軍統合参謀本部議長コリン・パウエルアメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフによって修正され協定結ばれた)。 1991年4月にはソビエト連邦最高指導者として初め日本訪れ海部俊樹首相当時)と日ソ平和条約締結交渉北方領土帰属等の問題討議したが、合意には達しなかった。 1990年11月7日革命記念日モスクワ赤の広場軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ暗殺未遂事件発生した労働者デモンストレーション最中行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進レーニン廟(この講壇上にソ連指導者並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフめがけて2発の銃弾放った。しかし、弾は外れたシモノフライフル銃取り出してすぐに護衛発見され狙い定めている間、将校走ってきて銃身殴ったため、弾は空に逸れたシモノフデモ参加していた群衆取り伏せられすぐさま逮捕された。彼は、1991年ソビエト連邦の崩壊最後ソビエト時代暗殺者であり、その後4年間を精神病院過ごしたソ連中央テレビ一時放送中断し午前1125分に通常放送再開した

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ペレストロイカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:33 UTC 版)

ゴスバンク」の記事における「ペレストロイカ」の解説

ゴルバチョフのペレストロイカ (立て直し) の一環として次の銀行誕生した。 「プロムストロイバンク」(ソ連産業建設銀行) 「ジルストイバンク」(旧ソ連住宅建設銀行) 「アグロバンク」(ソ連農業銀行) 「ヴェネシェコノバンク」(USSRインターナル・トレード・バンク) 「スベルバンク」(ソ連貯蓄銀行) 「スベルバンク」はロシア最大銀行一つとして今日まで続いており、ゴスバンク出身幹部抱え現在のロシア政府の銀行業務のほとんどを保有している。

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ペレストロイカ

出典:『Wiktionary』 (2021/08/13 02:16 UTC 版)

語源

ロシア語 перестройка

名詞

  1. 再構築再編

「ペレストロイカ」の例文・使い方・用例・文例

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