最高指導者として
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「アフタル・ムハンマド・マンスール」の記事における「最高指導者として」の解説
2013年4月、最高指導者のムハンマド・オマルが死亡した。しかしターリバーンの組織内においても2年以上にわたって本件は隠蔽され、「ムハンマド・オマル」は2015年半ばまで声明を出し続けた。 2015年6月、マンスールは指導者評議会の議長として、アフガニスタン紛争への関与を試みるISの最高指導者バグダーディー宛に「アフガニスタンや他のイスラーム諸国のジハード主義者を2つの陣営(イスラム首長国・アルカーイダ派とIS派)に分裂させようとしている」と非難した。2015年7月末、ターリバーンは声明で、オマルが2013年に死去していた事を明らかにし、同時に最高指導者にマンスールが就任した事を発表した。
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最高指導者として
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1994年7月8日、国家主席の金日成が急死した。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの(憲法上の国家主席の職務は国家副主席朴成哲が代行した)、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。1997年10月8日、金日成の死によって空席となっていた朝鮮労働党中央委員会総書記に「推戴」され、1998年9月の最高人民会議第10期第1回会議において改めて国防委員会委員長に選出された。同会議において、国防委員長は「国家の最高職責」とされた。経済政策の失敗で苦難の行軍が起きたため、1997年から2000年にかけて、金正日は最高指導者の地位をより確立させるべくかつて三大革命赤旗獲得運動を共に進めた義理の弟の張成沢を使って古参幹部とその側近と彼らの親族の大規模な粛清(深化組事件)を行った。 2000年5月、就任後の初外遊で中国を17年ぶりに訪れて初めて国際社会に姿をあらわし、中国共産党総書記の江沢民との会談で南北首脳会談に向けた事前協議を行ったとされる。2000年6月には太陽政策を取る韓国の大統領金大中を平壌に迎えて南北首脳会談を行い、会談の結果、南北共同宣言が発表、6.15南北共同宣言が採択された。その直前に金大中は現代グループが北朝鮮へ4億ドルや5億ドルともいわれる違法な巨額の送金を行ったことを黙認し、中国の北京、マカオ、香港を経由 して金正日と長男の金正男 や側近の張成沢 に渡ったとされる。2000年に南北首脳会談を行ってから2001年にかけ、イタリア、イギリス、カナダ等西側諸国との国交を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始めた。 翌2001年1月15日から中国を非公式訪問し、当時後継者候補と目された長男で改革派の金正男コンピュータ委員会委員長を同行 させて江沢民の本拠地である上海も視察し、摩天楼が並び立つ上海の経済発展を「上海は天地開闢した。改革開放が中国の経済発展に重要な役割をしたことが十分に証明された」と絶賛して改革開放に意欲を見せた。しかし、これは中国から援助を引き出すためのポーズとする見方もされている。同年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を境に、2002年にはアメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュが、北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国を「テロ支援国家」であるとし、「悪の枢軸 (axis of evil)」と呼んで批判するなどの北朝鮮敵視政策が国際的緊張を生んだ。アメリカとの緊張関係は和らぐことなく、「先軍政治」を掲げ、要求が受け入れられないと交渉決裂や武力衝突を辞さない態度をちらつかせるいわゆる“瀬戸際外交”を展開している。 2002年9月17日、日本の首相小泉純一郎との日朝首脳会談の席で、金正日は日本人13人を拉致したことを認め、口頭で謝罪した。犯人については、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」とし、関係者はすべて処罰したと述べた。また、2国間の懸案の解決し、国交正常化へ努力することを記した「日朝平壌宣言」を発表した。 2003年、イラク戦争の最中には密かに中国の北京を訪問していたという。イラク戦争の開戦による衝撃から中国は仲介に乗り出し、当初北朝鮮は対話を拒否するも中国が3日間原油供給を停止したことで態度を翻したともされる。同年3月から米中朝三者協議、さらに同年8月からは北京で六者会合が開催され、北朝鮮も参加する。 2006年7月16日には北朝鮮のミサイル発射をきっかけに国連安保理の全会一致で非難決議がなされた。同年、アメリカの『TIME』誌に「2006年の主要人物26人」の1人に選ばれ、「金総書記は7月4日にミサイルを連射、米ホワイトハウスで開かれたブッシュ大統領の独立記念日パーティーをメチャクチャにし、10月には世界で最も排他的かつ危険な核クラブの首長になった」と紹介された。 2008年10月11日には、2007年2月13日の六者会合での合意文書に基づき、アメリカ合衆国の国務次官クリストファー・ヒルらによって朝鮮民主主義人民共和国の「テロ支援国家」指定は解除された。 2009年4月9日に開かれた最高人民会議で国防委員長に再任され、政権は3期目に突入した。なお、同月の憲法改正により、国防委員長は北朝鮮の最高指導者として位置づけられた。 2009年8月4日、アメリカの特使として派遣された元大統領ビル・クリントンと会談。 2010年2月1日、金正日の「私は、人民が未だトウモロコシの飯を食べていることに最も胸が痛む。いま私が行うべきことは、この世で一番立派なわが人民に白米を食べさせ、パンやめん類を十分に食べさせること」という談話が労働新聞に掲載された。2009年末に行われたデノミが失敗し、その結果としての餓死や治安部隊との小競り合いが頻繁に発生しているという情報が日韓にも伝えられた。金正日自身の健康問題も絡み、北朝鮮はいわば「崖っぷち」の状態であると分析するメディアもあった。 2010年5月、中国を訪問し、金正日は六者会合の再開に前向きな姿勢を示した。これに対し中国側は、「中朝の友情を時代と共に前進、発展させる」という発言をした。これは中国共産党内では関係見直しを意味する決まり文句であり、度重なる北朝鮮の独断での強硬行為に中国側は不信感を募らせていると見られ、距離を置かれる形となった。また、金正日が要望した大規模な経済支援も国務院総理(首相)の温家宝に拒否され、金正日がその後の予定を切り上げて早く帰国したという事実も判明、いわば建国以来の友邦であった中国にも見捨てられた格好となった。同年8月、再び訪中し、吉林省などを訪問した。 2010年9月28日に開催された党代表者会において、党総書記として改めて推戴される。同日、党代表者会の開催を受けて招集された党中央委員会総会で、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長に再選された。また、同年10月9日には来賓の中国共産党中央政治局常務委員の周永康 とともに後継者に指名した金正恩と親子で並んで朝鮮労働党創建65周年記念行事の軍事パレードなどに出席した。 2011年に入ると、金正日は友好国との外交に力を入れた。同年5月に中国を再度訪問して国家主席の胡錦濤らと会談、同年8月にはロシアを訪問して大統領のドミートリー・メドヴェージェフと会見した。同年10月に中国の国務院副総理李克強が訪朝した際に金正恩を同席させた上で自ら応対して経済技術協力協定を結ぶ など、友好国との関係維持と援助を求めた。
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最高指導者として
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「フィデル・カストロ」の記事における「最高指導者として」の解説
革命後、首相に就任したフィデルは、キューバ共産党による一党制を敷いた。共産党の党首である第一書記の地位にあったフィデルは、国家の最高指導者として君臨した。1976年からは国家評議会議長として正式に国家元首の地位に就いた。しかし他の社会主義政権の最高指導者に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避していたためと言われている。
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