ペレストロイカと連邦の解体
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「ソビエト連邦の経済」の記事における「ペレストロイカと連邦の解体」の解説
1985年、それまで農業政策を担当してきたミハイル・ゴルバチョフが書記長になり、ペレストロイカを断行する。ゴルバチョフはアンドロポフ時代からの経済改革路線をさらに推進した。ゴルバチョフはニコライ・ルイシコフを首相に任命して経済再建の指揮を取らせ、次第にアレクサンドル・ヤコブレフなどの影響も受けてネップの再評価(ブハーリンの名誉回復)、国有企業改革による企業の自主性の拡大などを促し、最終的にはスタニスラフ・シャターリンによる「500日計画」に見られるような市場社会主義を志向するようになった。また、労働規律の強化を目的とした反アルコール・キャンペーンも行われたが、これは経済活動の自由化に伴う賃金支払いへの統制の弱化とともに、むしろソ連における超過需要の更なる増大をもたらし、結果として行列などに見られるような抑圧型インフレーションを加速させ、ソ連を危機的状況に追いやることになった。 ペレストロイカを支える新思考外交はやがてアフガニスタン撤退や冷戦構造終結につながり、ソビエト経済における軍事的負荷は軽減されたが、軍産複合体を形成する多くの軍需工場は閉鎖に追い込まれ、生産は低下した。また、経済活動の自由化は政治の自由化にもつながり、若者の間で新たな富裕層を産み出す素地となったが、特権を享受してきた共産党幹部層(ノーメンクラトゥーラ)の一部も温存させ、インフレの到来で年金生活に頼る高齢者の生活を直撃した。これらの社会的不満がソビエト国内世論や共産党内部を分裂させ、全面的な経済自由化には反対の立場をとるルイシコフ首相などの党内保守派と、より急進的な改革の実行を訴えるヤコブレフらの間で板挟みとなったゴルバチョフの求心力は低下した。 ゴルバチョフは1990年3月に大統領制を導入し、自らが初代大統領となって指導力の強化と連邦体制の立て直しを図ったが、連邦構成国の一つのリトアニアがその直前に独立宣言を発表してこれを拒否し、バルト三国の残り2ヶ国、エストニアとラトビアの独立宣言も続いた。バルト三国はソ連の重工業地域で、バルト海を通じドイツやスウェーデンなどとの交流窓口ともなっていたため、その独立宣言による分断はソ連経済全体にも悪影響を与えた。連邦政府はこれに対してエネルギー供給停止などの経済制裁で対抗し、1991年2月にはリトアニアの首都ヴィリニュスで血の日曜日事件によるソ連軍・警察による武力鎮圧まで起こしたが、独立を阻止できず、逆にゴルバチョフにより失脚したボリス・エリツィンがロシア連邦の最高会議議長として1990年6月に主権宣言を行い、経済面でも連邦解体と分権化が一層進行した。 1991年8月のクーデターにより、連邦政府やゴルバチョフ大統領の権威は失墜し、連邦政府はバルト三国の独立を認めた。同年12月、ロシアのエリツィン大統領やウクライナのレオニード・クラフチュク大統領らはベロヴェーシ合意でソビエト連邦の消滅と独立国家共同体の成立を宣言し、12月25日にゴルバチョフはこれを受け入れてソビエト大統領を辞任したため、ソビエト連邦は消滅した(ソビエト連邦の崩壊)。
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