東方外交
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東方外交(とうほうがいこう、独: Ostpolitik)は、西ドイツの首相ヴィリー・ブラントによる、東ドイツを含む東欧諸国との関係正常化を目的とした、東側諸国に対する外交政策である。東方政策(とうほうせいさく)とも訳される。
- ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375、ISSN 18818625。
- ^ a b 妹尾哲志「ブラントの東方政策における西側との関係 : 対ソ交渉過程における米英仏との意見調整」『アゴラ : 天理大学地域文化研究センター紀要』第8巻、天理大学地域文化研究センター、2011年、41頁、ISSN 13489631。
- ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3-4頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375、ISSN 18818625。
- 1 東方外交とは
- 2 東方外交の概要
- 3 経緯
- 4 対東ドイツの関係
東方外交
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ヴィリー・ブラントが西ドイツの首相だった1970年代、西ドイツは外交関係政策についてハルシュタイン原則を捨て、「東方外交」を行なった。西ドイツは「少なくとも当分の間、ドイツの民族自決や再統一に関する主張を取り下げ、ドイツ民主共和国(東ドイツ)やオーデル・ナイセ線の事実上の存在を承認した」。その後、1970年から1973年にかけて、西ドイツは次々にソビエト連邦(ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、ポーランド(ワルシャワ条約)、東ドイツ(東西ドイツ基本条約)、チェコスロバキア(プラハ条約)と友好条約を結び、それによって1970年代に存在したヨーロッパの秩序に順応した。
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東方外交
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ドイツ連邦共和国首相に就任した直後の1969年10月28日、初めての施政方針演説でブラントは東ドイツを国家として承認し対等の立場で関係改善を呼びかけるとともに、東欧諸国との友好関係樹立に向けての取り組んでいくことを明らかにした。ドイツ内に二つの国家があるとして「ドイツ民主共和国」と正式にその国名で呼んで、しかし二つの国家の住民は同じ民族として一体性があるから互いに外国ではないとして、一民族二国家と規定した。この時の演説にはそれまでの首相が触れていたドイツ再統一の言葉が触れられていなかった。これも従来の施政方針演説には無かったことである。 ここから特使エゴン・バールを交渉役にして東ドイツやソ連を始めとする共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」が展開された。 1969年11月にブラントは核不拡散条約に調印して西ドイツが核武装する可能性に対するワルシャワ条約加盟国の懸念を払拭した。そして翌12月からソビエト連邦との交渉に入った。その間の1970年3月にエアフルトで東ドイツのヴィリー・シュトフ首相・国家評議会副議長と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現した。会談では平和や東西共存に向けた対立構造を緩和するいくつかの提案を行ったが、ショトフが歩み寄りを見せることはなかった。この直前の1970年1月に東西ドイツ間で不可侵条約を結ぶことを提案したが東ドイツはこれを拒否した。その理由はこの提案に東西ドイツの相互承認が入っていなかったことで、シュトフ首相との会談も局面打開には至らなかった。これで西ドイツに近い東ドイツやポーランドとの関係改善と相互理解を深めるにはまず東側のリーダーであるソ連との合意形成がまず必要であると考え、1970年1月28日にソ連のグロムイコ外相との間で両国関係安定化のための予備交渉をスタートさせた。 そしてソ連との交渉の場でソ連側が出した要求の概要は、まずヨーロッパの国境の現状を承認すること、東ドイツを国際法上承認すること、西ベルリンを西ドイツから切り離すこと、ヒトラー時代のミュンヘン協定の無効化であった。 1970年7月27日からはシェール外相とグロムイコ外相との本格交渉が始まり、ヨーロッパの国境の現状承認は、将来の東西ドイツの統一を否定することにつながる恐れがあったが、現状の国境は不可侵であることを宣言するものの将来における東西ドイツの統一を排除するものでないことが認められた。西ベルリンの地位については1970年3月から始まった西ベルリンの地位協定の交渉の場で双方の主張に配慮することとなった。他の二点は西ドイツ側も了解しており、1970年8月12日にブラント首相とコスイギン首相との間で西ドイツとソ連との国境不可侵と武力不行使を誓ったモスクワ条約が調印された。この条約の第1条で平和の維持と緊張緩和の実現、第2条で武力不行使、第3条で現存の国境の不可侵が謳われた。このモスクワ条約は後に東方外交の総合建築とも称されて、まさにブラントの東方外交の枠組みを為していた。 次に1970年12月にポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル川・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を締結した。これで第二次大戦後に西ドイツ国内で保守派から反対されてきたポーランドの西部国境を承認し、そのほかの一切の領土についての返還請求権を放棄した。この時12月7日に首都ワルシャワでユダヤ人ゲットーの跡地を訪ねユダヤ人犠牲者追悼碑の前で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表した。これによって旧ドイツ東部領の喪失が確定した。しかしブラントにとって国内で野党の激しい抵抗に遭遇することになった。
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