汎ヨーロッパ・ピクニック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/25 00:20 UTC 版)
ポーランド民主化運動
ハンガリー民主化運動
汎ヨーロッパ・ピクニック
ベルリンの壁崩壊
ドイツ再統一
ビロード革命
ルーマニア革命
注釈
- ^ 1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」で実際にズグリゲット教会に集まった東ドイツ人へ西ドイツ大使館からのパスポートを手渡す実写場面が紹介されている。
- ^ 「ネーメトはいい指導者だ」と言ったという説もある。
- ^ 一部文献では、ホルン外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東ドイツ国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった、という言説があるが[22]、「何の反応も示さなかった」というのは誤りである。実際は本文の通り東ドイツ政府は、はっきりとハンガリーに抗議し、ワルシャワ条約機構加盟国の外相を集めようとしていた。また事前にハンガリー側には東ドイツ国民を処罰しないと約束したが、ネーメト政権はこの約束を全く信用しなかった。
- ^ これはネーメト首相ではなく、ホルン外相が夜7時の国営テレビのニュース番組の中で公式に明らかにしたのが最初であるとする説もある[23]。また1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」ではこのニュース番組でホルン外相が西ドイツへの出国方針を明らかにする場面がある。
- ^ 当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた。
- ^ ハンガリー側は東ドイツの非難に対して、1975年のヘルシンキ条約の署名国としての義務である、と反論した[23]。東西ヨーロッパ諸国が集まった全欧安保保障協力会議における人権及び基本的自由を尊重するとした条約に東ドイツも署名していた。
- ^ 最終的には6000人に達したという別の説もある[29]。
出典
- ^ 三浦 & 山崎, pp. 3–4.
- ^ 南塚 & 宮島, p. 106.
- ^ セベスチェン, pp. 372–374.
- ^ 三浦 & 山崎, pp. 78–79.
- ^ “「鉄のカーテン」 撤去までの道のり”. AFPBB News (2019年11月7日). 2020年5月12日閲覧。
- ^ マイヤー, p. 129.
- ^ セベスチェン, pp. 375–376.
- ^ a b c ヴィンクラー, p. 467.
- ^ a b クノップ, p. 251.
- ^ マイヤー, p. 175.
- ^ マイヤー, p. 177.
- ^ マイヤー, p. 180.
- ^ a b c d マイヤー, p. 181.
- ^ マイヤー, pp. 181–183.
- ^ ヴォルウルム, p. 198.
- ^ 三浦 & 山崎, pp. 4–5.
- ^ a b マイヤー, p. 184.
- ^ マイヤー, p. 185.
- ^ セベスチェン, pp. 467–469.
- ^ セベスチェン, pp. 467–468.
- ^ セベスチェン, pp. 470–471.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 81.
- ^ a b ジャット, p. 207.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 82.
- ^ マイヤー, p. 197.
- ^ マイヤー, pp. 205–206.
- ^ マイヤー, p. 206.
- ^ クノップ, p. 253.
- ^ ヴィンクラー, p. 468.
- ^ ヴォルウルム, p. 199.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 83.
- ^ マイヤー, pp. 198–199.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 8.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 9.
- ^ 三浦 & 山崎, p. 15.
- 1 汎ヨーロッパ・ピクニックとは
- 2 汎ヨーロッパ・ピクニックの概要
- 3 背景
- 4 汎ヨーロッパ・ピクニックの開催
- 5 国境の全面開放へ
- 6 事件の余波
- 7 その後
汎ヨーロッパ・ピクニック
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「東欧革命」の記事における「汎ヨーロッパ・ピクニック」の解説
1989年8月19日。ハンガリー国民のために開放されていたハンガリー・オーストリア国境を1000人ほどの東ドイツ市民がハンガリー社会主義労働者党の改革派や旧オーストリア・ハンガリー帝国皇室・ハプスブルク・ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクらの協力によって集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命した事件。この事件が報道されるや、東ドイツ市民が大挙してハンガリー、チェコスロバキアに押しかけ西ドイツへの脱出を試みた。ベルリンの壁の存在意義は相対的に低下し、11月の歴史的なベルリンの壁崩壊をもたらすきっかけとなった。 詳細は「汎ヨーロッパ・ピクニック」を参照
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