豊臣政権 歴史

豊臣政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 16:19 UTC 版)

歴史

地方政権から

豊臣秀吉織田信長の武将として所領を拝領し、当初は信長の代官的存在であったが時代を経て独自の知行宛行などの領国経営を行う地方政権へ移行していった。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると、秀吉には「江北浅井跡一職」が信長より恩賞として与えられたといわれるが、管轄範囲としては近江国伊香浅井坂田3郡のうち滅亡時の浅井領であり、長浜城を中心に支配を行った。天正9年(1581年)ごろから長浜領は秀吉の養子であった羽柴秀勝が担当した。

天正5年(1577年)10月から秀吉の播磨侵攻が始まり、天正8年(1580年)4月から5月にかけて播磨国が平定されると、赤穂佐用2郡を除く播磨国の支配権が秀吉に与えられ、黒田孝高が与力から秀吉家臣となるなど、播磨衆が配下に加わった。

この頃、播磨侵攻と同時期に但馬侵攻も始まっており、竹田城には羽柴秀長が城代として配置された。天正8年(1580年)5月には出石城の攻略により但馬が平定され、秀長や宮部継潤、木下昌利らによる支配が始まり、但馬衆が配下に加わった。

天正9年(1581年)10月、秀吉は因幡国鳥取城を攻略し、宮部継潤を城代に置いて支配を開始し、八東郡(鬼ヶ城)に木下重堅、智東郡に磯部康氏・八木重信、巨能郡に垣屋光成、八頭郡に山名氏政、鹿野郡に亀井茲矩、高草郡吉岡に多賀備中の因幡衆を宛った。備前伯耆についても秀吉は勢力を進めたが、味方となった宇喜多氏などへの処遇は信長が直接行っており、秀吉の直接支配が及ぶのは本能寺の変の後となった[1]

豊臣政権の始期

豊臣秀吉

豊臣政権の始期については諸説がある[2]

中央政権へ

天正10年(1582年6月2日織田信長明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。このとき、中国方面総司令官として備中にあった信長の家臣羽柴秀吉は、直ちに毛利輝元と講和して軍を東に返して、明智光秀を討った(山崎の戦い)。主君の仇・光秀を討った功績によって発言力を増した。

清洲会議において信長の後継者が話し合われると、柴田勝家織田信孝(信長の三男)を推薦したのに対し、まだ幼児だった三法師(当時の織田家当主・織田信忠の嫡男、信長の孫)を擁立し、柴田らと対立。会議の結果、三法師を後継者とし、信孝がその後見役につくということで織田政権が継承されることとなった。

ここから秀吉は信長の息子たちを排除していく。まず柴田勝家の息子・勝豊を攻めて降伏させ、信孝を孤立させ、彼から三法師を奪う。これで当主の代理という立場を得た秀吉は、1583年、柴田勝家と織田信孝を賤ヶ岳の戦いにおいて滅ぼし、他の重臣の滝川一益を降した。そして前田利家金森長近らを味方に引き入れる。

これに不満を持った織田信雄(信長の次男)が、天正12年(1584年)に信長の盟友であった徳川家康と結んで、反秀吉の兵を挙げる。兵力的には秀吉軍が優勢であったが、家康の戦術の前に秀吉軍は小牧・長久手の戦いで局地的に敗れた。しかしその後、織田信雄は秀吉の兵力に圧迫され、家康に相談なく秀吉と単独講和してしまう。これにより家康も秀吉と戦うための大義名分を失い、ひとまず秀吉と和睦した。

天正13年(1585年)、秀吉は前年・前々年の戦いで常に自らの背後を脅かした紀伊の諸勢力(紀州攻め)、四国の長宗我部元親四国平定)を相次いで攻略した。

同年7月、秀吉は二条昭実近衛信輔との間で朝廷を二分していた関白相論に介入して、正親町天皇関白に任じられ、翌年には豊臣姓も下賜された。これは、秀吉が朝廷から天下の実力者として認められ、朝廷から政治を委任されたことを意味している。この時点で秀吉の権力は主家の織田家を越え、事実上の豊臣政権が誕生したと解釈される。

全国統一

天正13年(1585年)、佐々成政越中を攻め、織田信雄を家臣として従軍させる。

天正14年(1586年)、秀吉は徳川家康を上洛させ、臣従させようと試みていた。なかなか従わない家康に対し、秀吉は生母の大政所を人質として家康のもとへ送った。上洛した際の家康の身の安全を保障する一方、母の身に何かあれば家康討伐の大義名分が立つわけである。こうした策の前に、家康も遂に上洛して秀吉に臣従せざるを得なくなった。なお、この頃には越後上杉景勝安芸毛利輝元らも秀吉に臣従することを誓っていた。また豊後大友義統も隠居の父・義鎮に上坂してもらい秀吉に臣従を誓う。そして天正15年(1587年)には九州を席捲しつつあった薩摩島津義久を、惣無事令に違反したとして討ち、屈服させ(九州征伐)、西国は完全に豊臣氏の支配下に入った。

天正18年(1590年)、惣無事令に違反した北条氏政北条氏直親子を、23万人の兵力を動員して攻略(小田原征伐)。この時に東北の伊達政宗最上義光らにも臣従を誓わせ(奥州平定)、天下統一した。豊臣政権が日本全国に威令が及ぶ日本の統一政権として成立したのである。

天下が統一されたという実情に関しては、葛西・大崎一揆南部氏の内乱である九戸政実の乱などに見られる。秀吉はこれら乱の鎮圧に蒲生氏郷石田三成らを大将に6万人の軍勢を奥州の僻地に派遣している。これは室町幕府第8代将軍・足利義政以来の幕府にはできなかったことであり、秀吉による天下統一が成った結果であると判断できる。これは九州においても同様で、肥後国人一揆梅北一揆に対して徹底的な鎮圧と関係者の処分を行っている。

一方で、初期の功臣たちですら厳しい処置が執られるようになった。信長家臣時代の秀吉を支えた神子田正治尾藤知宣はそれぞれの過失により勘気を被って追放されていたが、神子田正治は天正15年(1587年)に自害を命じられ、首は京都一条戻橋に晒された。尾藤知宣も天正18年(1590年)に処刑された。両名ともに秀吉の権威を損なう放言をした者であり、特に関白宣下以後、秀吉は家臣が秩序を乱す振る舞いをすることを許さなかった。

文禄の役

全国統一を達成した秀吉は、文禄元年(1592年)、の征服を目指して、全国諸大名に朝鮮への出兵を命じた(文禄の役)。倭寇女真族との紛争以外本格的な戦争経験がない朝鮮正規軍を、戦国時代を経て大量の鉄砲を装備した日本軍が圧倒し連戦連勝を重ね、また体制に不満があった民衆の一部の協力もあり、王都漢城平壌を次々と占領するなど朝鮮領土の大部分を占領した。

文禄2年(1593年)になると、朝鮮に明軍が本格的に来援し攻勢に出る。明・朝鮮軍は平壌を抜き漢城に迫ったが、日本軍は碧蹄館の戦いでこれを撃破する。以後戦線は膠着し、日本軍は兵糧不足に陥り、明軍は数万匹の馬が餓死するなど、双方が兵站に苦しむこととなると、講和交渉が開始され休戦に入った。

秀次事件

豊臣秀次

文禄2年(1593年)に、秀吉に実子の豊臣秀頼が生まれた。秀吉はすでに実子の誕生をあきらめて、養子の豊臣秀次(秀吉の甥)を後継者に指名していたが、文禄4年(1595年)に謀反の容疑で秀次に切腹を命じ、また秀次の一族を処刑にした。これは秀吉が秀頼を後継者にするためだったともいわれる。

この秀次事件がもたらした政治危機を克服するため、豊臣秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条[3]と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図った。この連署を行なった六人の有力大名、徳川家康毛利輝元上杉景勝前田利家宇喜多秀家小早川隆景が、豊臣政権の「大老」であると、後世みなされることになった。

慶長の役と秀吉の死

石田三成小西行長らによって進められていた明との講和は決裂し、慶長2年(1597年)には再び、一部駐屯中の朝鮮に出兵が行なわれた(慶長の役)。『浅野家文書』によると、この再出兵の目的は赤国(全羅道)を残らず成敗し、余力をもって青国(忠清道)その他を討つこととされている。日本軍は、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、全羅道の道都全州を占領、忠清道の稷山で明軍と交戦(稷山の戦い:双方とも自軍の勝利と記録[4][5])した後、京畿道安城・竹山まで進撃した。日本軍は約2ヶ月で全羅道、忠清道を席巻し、京畿道への進出を果たして目的を達すると、拠点となる城郭(倭城)建設のために朝鮮半島南岸に撤収し、各地に新たな城の築城を開始する。その中で最も東端に位置する蔚山城が未完成のまま、年末から翌慶長3年(1598年)初めにかけて明・朝鮮軍の攻撃を受けるが撃退に成功する(第一次蔚山城の戦い)。

9月末から10月初めにかけて明・朝鮮軍は攻勢をかけ、日本軍の順天城、泗川城、蔚山城を攻撃したがすべて撃退した。特に泗川城では島津義弘が明・朝鮮軍を大破した(泗川の戦い)。

明・朝鮮軍の攻勢を撃退した日本軍であったが、既に8月18日に秀吉は死去していた(享年62)。秀吉という中核を失って不安定化した豊臣政権は、対外戦争を継続できるような状況にはなく、10月になって朝鮮からの帰国命令が発せられた。帰国段階で明・朝鮮水軍の妨害を受け、露梁海戦を戦うことになるが、11月末までに全軍帰国を果たした。

政権崩壊

豊臣秀頼

秀吉の死後、豊臣氏は秀吉の嫡男である秀頼が継いだ。秀頼はわずか6歳だったため、豊臣氏内部で秀吉の晩年からすでに発芽していた加藤清正福島正則武功派と石田三成、小西行長らによる文治派の対立が表面化し、豊臣家臣団は分裂する。さらに毛利輝元と、五奉行のうち浅野長政を除く四奉行が誼を結び、また朝鮮に出兵せず戦力を消耗しなかった徳川家康は、伊達政宗らと無断で婚姻を結ぶ(双方共、秀吉によって禁止されていた)など、豊臣政権は急速に乱れ始める。

慶長4年(1599年)には、秀頼の後見人として豊臣政権を支えていた前田利家が死去する。利家の死によって家康に単独で対抗できる大名はいなくなり、家康は次第に政権を掌握するようになる。一方、石田三成は、毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝らと組んで家康を倒そうと試みるが、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおいて、三成ら西軍は敗れた。

関ヶ原の戦いの戦後処理で西軍の三成ら主だった者は処刑もしくは改易され、全国にあった222万石の約4分の3が削減された豊臣家の領地は摂津河内和泉の3カ国、65万石に減少した。これは関ヶ原の戦後処理で諸大名の領地替えを行った際に、家康が豊臣家の蔵入地を分配してしまったためである。また、豊臣家の財源を担っていた石見銀山生野銀山は家康の直轄領になり、長崎奉行堺奉行も家康譜代の家臣が就任していった。もっとも、全ての蔵入地が直ちに消滅した訳ではなく、豊臣恩顧である加藤清正の領国であった肥後国には関ヶ原の戦い以降も3万石の蔵入地が(少なくても清正が死去した1611年まで)存続していたことが知られている[6]

戦後に大老格の家が宇喜多秀家は改易、毛利・上杉は大幅に減封されたため外され、徳川に従属する前田と小早川のみとなり、家康は豊臣家抜きに自身の政治権力を築き上げていく。また、前田玄以を除く五奉行も粛清された。

慶長8年(1603年)に諸大名を国替えしたことにより関東・東海地方を掌握した徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、豊臣家抜きで徳川氏による江戸幕府という形での政治機構が整備されていく。徳川氏による江戸幕府は全国の大名を臣従させていったが、豊臣氏は従わずに独立を維持しようとした。このため、慶長19年(1614年)からの大坂の陣において、江戸幕府により滅ぼされた。


注釈

  1. ^ 杉原氏や浅野氏(浅野長政浅野幸長)や福島氏(福島正則)も親族ではあるが、明確に家臣という扱いをされている。
  2. ^ 村川浩平は、輝元の官位官職昇進の理由として「家康の身分的特異性を薄めようとしたのである」「信雄の身分的特異性を秀吉が薄めようとしたものと考えられよう」としている[12]
  3. ^ なお、村川浩平によると、蒲生氏郷も清華成した可能性がある[13]
  4. ^ ただし、豊臣宗家の蔵入地が直ちに無くなったわけではない。例えば、秀吉子飼いの大名と言える加藤清正の所領では清正存命中は豊臣宗家の蔵入地が機能していた形跡が残されている[6]

出典

  1. ^ 柴裕之 著「羽柴秀吉の領国支配」、戦国史研究会 編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年。 
  2. ^ 藤田達生「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」『愛知県史研究』13号、2009年3月。 
  3. ^ 伝「水口藩加藤家文書」(『特別展 五大老』パンフレット所収)
  4. ^ 『黒田家譜』
  5. ^ 『李朝実録』
  6. ^ a b 山田貴司 著「加藤清正論の現在地」、山田貴司 編『加藤清正』戒光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-139-4 
  7. ^ 山本博文『島津義弘の賭け』〈中公文庫〉2001年、45頁。 
  8. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、22-23頁。 
  9. ^ a b 矢部健太郎「豊臣「武家清華家」の創出」『歴史学研究』746号、2001年。 /所収:矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』吉川弘文館、2011年。 
  10. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。 
  11. ^ a b 堀新『天下統一から鎖国へ』吉川弘文館、2009年。 
  12. ^ 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年。 /所収:村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。 
  13. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。 
  14. ^ 矢部健太郎「秀吉の小田原出兵と「清華成」大名」『國學院大学紀要』第49号、2011年。 
  15. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  16. ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  17. ^ 秀吉の現存する遺書の明文では、家康らを「五人の衆」、三成らを「五人の物」と記されている
  18. ^ 宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営-「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して―」『大日光』74号、2004年
  19. ^ 藤野保 著「二元政治」、藤野保; 所理喜夫; 新行紀一 ほか 編『徳川家康辞典』(コンパクト)新人物往来社、2007年。 
  20. ^ 三鬼清一郎 著「御掟・御掟追加をめぐって」、尾藤正英先生還暦記念会 編『日本近世史論叢』 上、吉川弘文館、1984年。 


「豊臣政権」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「豊臣政権」の関連用語

豊臣政権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



豊臣政権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの豊臣政権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS