ぶらじる丸 ぶら志゛る丸

ぶらじる丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 14:43 UTC 版)

ぶら志゛る丸

ぶら志゛る丸
基本情報
船種 貨客船
クラス あるぜんちな丸級貨客船
船籍 大日本帝国
所有者 大阪商船
運用者 大阪商船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 神戸港/兵庫県
姉妹船 あるぜんちな丸(初代)
信号符字 JCZN
IMO番号 46463(※船舶番号)
建造期間 419日
就航期間 959日
経歴
起工 1938年10月31日[5]
進水 1939年8月2日[5]
竣工 1939年12月23日[5]
就航 1939年12月
処女航海 1940年1月11日
除籍 1942年9月15日
最後 1942年8月5日被雷沈没
要目
総トン数 12,752トン[6]
純トン数 7,018トン
載貨重量 8,109トン[6]
排水量 不明
全長 155.0 m[7]
垂線間長 155.00m[6]
型幅 21.0m[6]
型深さ 12.6m[6]
高さ 32.30m(水面からマスト最上端まで)
13.71m(水面からデリックポスト最上端まで)
15.54m(水面から煙突最上端まで)
喫水 5.557m[6]
満載喫水 8.793m[6]
主機関 三菱製MS72/125型11気筒ディーゼル機関 2基[6]
推進器 2軸[6]
最大出力 17,963BHP[6]
定格出力 16,500BHP[6]
最大速力 21.4ノット[6]
航海速力 18.0ノット[6]
航続距離 不明
旅客定員 竣工時[7]
一等:101名
特別三等:130名
三等:670名
1941年[6]
一等:101名
三等:792名
乗組員 193名[6]
1941年9月4日徴用。
高さは米海軍識別表[8]より(フィート表記)。
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ぶら志゛る丸
基本情報
艦種 特設運送船
艦歴
就役 1942年5月1日(海軍籍に編入時)
連合艦隊/横須賀鎮守府所管
要目
兵装 単装砲2門
九三式13mm機銃
装甲 なし
搭載機 なし
徴用に際し変更された要目のみ表記。
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概要

「ぶら志゛る丸」は三菱長崎造船所1938年(昭和13年)10月31日に起工[9]1939年(昭和14年)8月2日に進水[9]。同年12月23日に竣工した[9]。 定繋港は神戸港と定められた[10]

基本的な仕様は姉妹船「あるぜんちな丸」とほぼ同一であり、一等食堂レイアウトでは村野藤吾[11]ら建築家が参加し船内装飾も「あるぜんちな丸」と同様に日本趣味に統一されたものとなったが、一等食堂壁面は染織家山鹿清華が手掛けた総絹糸織の「手織綿」で彩られ[12]、「日光」、「鎌倉」、「宮島」と日本の観光地の名前が付けられたスイートルームや特別室が配された[13]。また、一等ラウンジの天井部分は、「あるぜんちな丸」とは違ってビームがむき出しのまま間接照明が配された形となった。これは設計担当の大阪商船工務部長の和辻春樹の発想であり、和辻曰く「ビームは船特有の持ち味だから、むしろ、あからさまに出して効果を出したら」ということとなり、通例では覆い隠すビーム部分に間接照明を配したのである[14]。「世界にも類を見ない試み」[15]かどうかはさておいても、装飾面においては「あるぜんちな丸」とは決定的に異なる特徴となった。

1940年(昭和15年)1月11日、「ぶら志゛る丸」は処女航海で横浜港を出港して処女航海の途に就く。しかし、「あるぜんちな丸」の処女航海中に勃発した第二次世界大戦の影響もあり、3航海を終えた時点で西回り南米航路からは撤退し、大阪大連線(大連航路)に移されたが[13][16]、大連航路での活躍期間も短く、1941年(昭和16年)9月4日付で日本海軍に徴傭される[17]。「ぶら志゛る丸」無線局も閉鎖された[18]。 当初は一般徴傭船としてトラック諸島サイパン島クェゼリン環礁などへの輸送任務に従事した[13]。 上甲板に大発動艇10隻を搭載、後部船倉内に重油タンク、二重底区画に真水タンクを増設したという[19]。 徴傭船になったあと、特別室「鎌倉」と「宮島」が霊安室に変身した[20]

1942年(昭和17年)5月1日、日本海軍は「あるぜんちな丸」、「ぶら志゛る丸」を特設運送船に入籍[17][21]。 日本海軍の法令上では「ぶらじる丸」と呼称された[21][22]。 2隻とも横須賀鎮守府所管となる[21][23]。 特設艦船入籍後、「あるぜんちな丸」と「ぶら志゛る丸」は他の輸送船とミッドウェー作戦に参加[24][25]。 第二連合特別陸戦隊(司令官大田実少将)指揮下の呉第五特別陸戦隊を乗せ、ミッドウェー島まで輸送することとなった[26][27]。大田司令官は陸戦隊本部を「ぶら志゛る丸」に置いた[27][28]

5月28日に「ぶら志゛る丸」は第二水雷戦隊[29]などに護衛されてサイパン島を出撃[24]。船団は、一路ミッドウェー島に向かった[27][30][31]。 しかし、攻略部隊は6月4日になってB-17PBY カタリナの雷爆撃を受けた[32][33]。 翌6月5日にはミッドウェー海戦が生起して第一航空艦隊が壊滅し、作戦が中止になったため攻略部隊も反転せざるを得なかった[34][35]。 6月13日[36]、「あるぜんちな丸」、「ぶら志゛る丸」は第二水雷戦隊各艦と共に大宮島(グアム)に帰投[37][38]。数日間、グアム島で待機した[27]。6月22日、第二連合特別陸戦隊本部は「ぶら志゛る丸」から陸上に移転した[27]

アリューシャン方面の戦いに投入された「あるぜんちな丸」とは違い[39][40]、「ぶら志゛る丸」は横須賀に向かい、7月4日に到着した[20]。7月18日にはソロモン方面への航空資材と人員の輸送のため大阪釜山に寄港したのちにラバウルに向かったが、途中で航空母艦に改装されることが決まり[41]、輸送任務は打ち切られトラックで待機となった[20]。 ミッドウェー海戦で喪失した主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)の穴埋めであり[42]、昭和18年度では「ぶら志゛る丸」を含めて5隻(あるぜんちな丸シャルンホルスト千歳千代田、ぶら志゛る丸)が対象である[43](官房機密第8107号)[44][45]。空母改造にあっては、主機関を陽炎型駆逐艦のものへ換装する予定であった[45]

沈没

1942年(昭和17年)8月4日14時、「ぶら志゛る丸」は便乗者240名を乗せてトラックを出港し、北水道を通過して横須賀へ向かった[46][47]。この航海を終えれば、「ぶら志゛る丸」は航空母艦に改造される予定であった[43][48]。「ぶら志゛る丸」は速力も出るため単独航海となり、8月9日横須賀着の予定であったという[48]。 しかし、出港後7時間足らずの20時50分ごろ、北緯08度50分 東経151度04分 / 北緯8.833度 東経151.067度 / 8.833; 151.067の推定地点を航行中、船体に衝撃を受ける[46]。そのころ、トラック沖で哨戒にあたっていたアメリカ潜水艦「グリーンリング[49]北緯08度43分 東経151度03分 / 北緯8.717度 東経151.050度 / 8.717; 151.050の推定地点で針路338度、推定速度16ノットから18ノットで航行する「ぶら志゛る丸」を発見しており、浮上攻撃で艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、すべて外れたことを確認した[50]。「グリーンリング」では「命中せず」と判定したものの、実際には不発魚雷が当たっており、「ぶら志゛る丸」では防水扉を閉鎖した上で速力を上げ、警戒を厳重にした[47]。「グリーンリング」は一度は振り切られるも、翌8月5日未明に「ぶら志゛る丸」を再び発見し、北緯09度51分 東経150度46分 / 北緯9.850度 東経150.767度 / 9.850; 150.767の推定地点で魚雷を3本発射[51]。2本が「ぶら志゛る丸」に命中したことが確認され、「ぶら志゛る丸」は機関室が使用不能となって左舷へ傾斜[46]。やがて船首が45度の角度で持ち上がりはじめ、「ぶら志゛る丸」の大野仁助船長がブリッジに立って三度「天皇陛下万歳」を高唱して万歳をしたあと間もなく海中に没した[47]。日本側沈没位置記録北緯09度56分 東経150度46分 / 北緯9.933度 東経150.767度 / 9.933; 150.767[52]

「ぶら志゛る丸」の救命ボートは、辛うじて第17号乙艇、第18号乙艇、第19号乙艇と第7号カッターのみが海上に降ろすことができ、第17号乙艇には乗員53名、第18号乙艇と第19号乙艇には乗員52名、そして第7号カッターには乗員44名が乗艇し、このうち第7号カッターは決死隊として早期救助を求めるべく別行動を取ることとされた[53]。しかし、4艇が集結していたその時、攻撃を終えて捜索中だった「グリーンリング」が接近し、第19号乙艇乗艇の乗員1名を捕虜とした[47][53][54]。「グリーンリング」はこの捕虜を尋問し、撃沈したのが「ぶら志゛る丸」であることを確認した[54]。4艇の運命はさまざまではあったが、結果的にはいずれも救助された。しかし、その漂流日数はいずれも10日以上で、第19号乙艇が10日、第7号カッターは11日、第18号乙艇は20日、そして第17号乙艇は実に25日間も漂流し続けて救助を待ちわびたのであった。

別行動の第7号カッターを先発させて、残る3艇は櫂をマスト代わりに衣類を帆代わりにして帆走を開始した[55]。また、乗員のうち3名は便乗して漂流していた4名の女性タイピストに席を譲り、自らは海中に消えていった[56]。やがて第7号カッターは8月15日に北緯08度31分 東経149度16分 / 北緯8.517度 東経149.267度 / 8.517; 149.267の地点で特設砲艦「第二号長安丸」(東亜海運、2,631トン)に発見されて救助され[57]、第19号乙艇は8月16日にナモヌイト環礁オノー島に到達し、乗艇者は後刻トラックに帰還[58]。 残る第17号乙艇と第18号乙艇は依然として漂流を続けていたが、8月16日に分離してしまった[59]。度重なるスコールの襲来に悩まされ、また発見した航空機も期待通りに艇を見つけてくれることなく飛び去る日々が続き、非常用乾パンも乏しくなってアホウドリを喰らう状況となったが、艇の生存者は神仏の加護を信じて希望を捨てなかった[60]。とはいえ次第に生存者の体力は衰えていき、第17号乙艇では8月25日に水夫長が衰弱死して水葬に付された[61]。一方の第18号乙艇も3名が亡くなったが、8月24日に北緯11度16分 東経149度26分 / 北緯11.267度 東経149.433度 / 11.267; 149.433の地点で特設駆潜艇「第十拓南丸」(日本水産、343トン)に救助された[58]。第17号乙艇も8月27日に航空機が近接し、翌8月28日に航空機によって通信筒と食料を投下[62]。そして、8月29日朝に北緯11度26分 東経147度58分 / 北緯11.433度 東経147.967度 / 11.433; 147.967の地点で、第7号カッターと同じく「第二号長安丸」に救助された[63]

「ぶら志゛る丸」は1942年(昭和17年)9月15日に除籍[17]および解傭された[22][64]

エピソード

ルオット停泊中、第六戦隊(司令官五藤存知少将)がルオットに入泊してきた際、第六戦隊側から「ぶら志゛る丸」に対し、「貴船にパンを貰いに行く」と信号を送った。これに対して「ぶら志゛る丸」は「もう客船でないのでパンはない」と返事したところ、「貴船は客船だから是が非でも焼いて欲しい」と無理難題を吹っ掛けられた。「ぶら志゛る丸」は船内から小麦粉とパン焼き器を探し出し、第六戦隊からの難題に応えた[20]

徴傭されてからの「ぶら志゛る丸」は、右上の画像のように煙突は戦時塗装で塗りつぶしたものの、船体のほとんどは平時塗装の面影を残していたとされる。これに関しては、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「平時塗装のまま」としている[20]。一方、艦艇研究家の岩重多四郎は、大野仁助船長が灰色を嫌がって開戦後もしばらく平時塗装にしていたとの記述があるとするも、平時塗装のままではなくその上にグレー系塗料を塗っていたものが薄くなった[65]、としている[66]。大阪商船契約の画家大久保一郎が証言から遭難時を再現したぶら志゛る丸は戦時下グレー系に塗られたものである。撮影時期については、野間は昭和17年3月末としている[20]

画家大久保一郎[3]は遭難時の証言から「ブリッジで万歳三唱を唱えてぶら志゛る丸と運命を共にする大野仁助船長」の様子を前述とは異なる場面から描いている。大野仁助船長は「仏の仁助」と周囲から称される温厚な人物とされ、釜山からトラック諸島に回航したあと、到着の報告のためトラックの第四根拠地司令部に赴いた。しかし、司令官がいなかった。大野が司令官の居場所を幕僚に問いただしたところ、司令官は遊びに出ていたという。「仏」大野はこれを聞いていつもの温厚さとは裏腹に憤激し、周囲に自分がトラックまでの航海でトイレ以外ブリッジから離れず任務を遂行したことを挙げたあと司令官の「怠慢」をなじり、「帝国海軍が日本を滅ぼすぞ」と言い捨てた[67]

監督官

  • 神通久次郎 中佐:1942年5月1日[68] -

ギャラリー

画像外部リンク
「ぶら志゛る丸」のカラー写真

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