AMC時代(1938年 - 1966年)
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「マチレス」の記事における「AMC時代(1938年 - 1966年)」の解説
「AJS (オートバイ)」も参照 1938年、マチレスやAJSを統括する親会社として AMC ( Associated Motor Cycles ) が設立された。AMCは後にフランシス・バーネット ( en:Francis-Barnett ) やジェイムズ ( en:James Cycle Co ) 、ノートンといったオートバイメーカーを吸収していった。 第二次世界大戦中は、マチレスは軍用として80,000台の G3 および G3L を生産した。1941年に生産を始めたG3Lにはテレドローリック・フォークと呼ばれるフロント・サスペンションを採用していたが、これはマチレスのオートバイとしては初めてのテレスコピック式フロントフォークである。テレドローリック・フォークは25年間に渡るオートバイのサスペンションの歴史の中で最も大きな革新であると評価する者もいた。 戦後はマチレス / AJS両ブランドの350ccモデルと、戦時中の伝説的な軍用オートバイであったG3を発展させた500cc単気筒のマチレス・G80 から生産を再開した。1948年からは競技用マシンの製造を始め、数々の勝利を記録した。 1949年にはマチレス / AJSで初めてのバーチカルツインエンジンの500ccモデルを発売、1956年には600cc、1959年には650ccモデルへと発展した。 レース用モデルではAMCはスーパーチャージャーを装備した AJS・ポーキュパインや AJS・7R などを生産し、1949年に始まったロードレース世界選手権ではスーパーチャージャーを取り外したポーキュパインでレスリー・グラハムが500ccクラスの初代チャンピオンに輝いている。 1952年にはマチレス・G9 のバーチカルツインをチューニングした500ccエンジンを、7Rをベースとしたフレームに搭載したマチレス・G45 を開発。G45はデレック・ファラントのライディングにより平均速度88.65mphでマンクス・グランプリに勝利した。AMCはG45の量産を開始し、11月にアールズ・コートで開催されたモーターショーに出品した。量産型G45はファンに受け入れられ、、多くのクラブマン(アマチュア・レーサー)がマチレス / AJSの500ccや350ccの市販レーサーでレースに出場した。しかし1954年になるとヨーロッパでオートバイメーカーの競争が激化し、開発責任者のアイク・ハッチ ( Ike Hatch ) が死去したことも重なってAMCはこの年の終わりにワークス活動から撤退することを決定した。ただし市販レーサーの製造販売は続けており、1959年にはプライベーター用の市販レーサーであるマチレス・G50 を発売。G50はボア・ストローク 90.0 x 78.0 mm 、出力50 bhp で最高速度135 mph ( 217 km/h ) を誇り、ライバルであったノートン・マンクスにスペックではわずかに劣っていたものの、軽量な車体を生かしてタイトなサーキットでは度々マンクスを打ち負かした。 1958年にマチレス / AJSのロードモデルは250ccクラスの市場に参入し、1960年には350ccの軽量単気筒モデルをラインナップに加えた。 G15 は、前作の G12 の長所を受け継ぎつつフレーム、フロントフォーク、リヤスイングアーム、プライマリーチェーンケース、トランスミッション、駆動系、潤滑系と多岐に渡る改良を受けたモデルである。G15シリーズは、AMCが所有する三つのブランドからそれぞれリリースされた。まずマチレスブランドとして G15CS と G15CSR から成るG15シリーズ、AJSからは M33Mk2、M33CS、M33CSR のバリエーションを持つ Model 33 シリーズ、そしてノートンのロードスター、N15CS である。G15シリーズは1963年から生産が始まり、当初は輸出専用モデルであったが1965年からはイギリスでも販売された。 マチレス・G85CS は圧縮比 12 : 1 で低回転から扱いやすく改良された500ccエンジンを搭載したモデルで、1920年代以来の古い設計のオイルポンプがノートン製のギヤ駆動式のものに交換されていた。この改良は元々は1964年に350cc / 500cc のロードスターモデルに対して成されたもので、その後にG85SCにも加えられた。新しいオイルポンプは高性能単気筒エンジンの高回転域でも安定したオイル供給を可能にしていた。G85CSは1966年には更に改良され、新しいピストンによって圧縮比は更に 12.5 : 1 にまで高められた。またアマル製GPキャブレターの標準装備によって、始動性に難があったものの 41 bhp / 6500 rpm の最高出力を発揮した。 P11 はG85CSのフレームを変更し、強化したフロントフォーク、完全新設計の駆動系、潤滑系やチェーンケースなどいくつかの改良を加えたモデルであり、AMCが生産した最後のモデルとなった。 マチレス / AJS は、快適で扱いやすく信頼性にも優れ経済的なオートバイを提供し続けた。しかし、これらの特性は商業的に成功し続けるには十分ではなく、1960年代に入ってから売り上げは落ち込み続けていた。1960年にチーフ・デザイナーのバート・ホップウッド ( en:Bert Hopwood ) がAMCを辞め、メリデンに拠点があったトライアンフに移籍したが、この年にAMCが計上した利益は、同じイギリスのオートバイメーカーであるBSAの利益が350万ポンドであったのに対して、わずかに20万ポンド程度だった。そして翌1961年には35万ポンドの赤字となり、1962年には既にAMC傘下となっていたノートンのバーミンガム工場を閉鎖し、ノートンとマチレスの生産拠点を一本化するなどの合理化をはかるが、状況は明らかに厳しくなりつつあった。AMCはノートンは2気筒モデルに、マチレス / AJSは単気筒モデルにラインナップを絞るという決定を下すがこの戦略も功を奏することはなく、ついには生産中止に至りAMCは倒産、会社の資産は新会社のノートン・ビリヤーズに引き継がれた。
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