首相・大統領として
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「ロバート・ムガベ」の記事における「首相・大統領として」の解説
南アフリカのバルタザール・フォルスター大統領の説得により、スミス政権は、少数派である白人による、圧倒的多数派の黒人を支配する「アパルトヘイト」が限界に来たことを受け入れざるを得なかった。1978年3月3日スミス政権と、アベル・ムゾレワ司教、シトレら黒人穏健派指導者は、ソールズベリーの総督官邸で停戦協定に調印した。協定の結果、暫定政権樹立を準備すべくローデシア総督ソームズ卿の下、議会選挙を実施することになった。暫定国家ジンバブエ・ローデシアの新議会選挙は、暴力を放棄した唯一の黒人政党でムゾレワ司教、カナーン・バナナに率いられた統一アフリカ民族会議(統一アフリカ国民会議, UANC)が勝利した。しかし、選挙後もイギリスおよびアメリカは、ローデシアに対する制裁を継続した。1979年9月イギリス政府は、ジンバブエ・ローデシアの全政党に呼びかけランカスター・ハウスにおいて会議を開催した。この会議には、イアン・スミス、ムガベ、ンコモ、エドガー・テケレ、チェンジェライ・フンズヴィ、エドソン・ゾヴォブゴらが参加し、1980年2月に選挙を実施することが決定した(ランカスター・ハウス協定)。 選挙は、不正や疑惑にみちたものであったが、ムガベ率いるZANUは、ランカスター・ハウス協定であらかじめ白人勢力に割り振られた20議席を除く、80議席中、57議席を獲得した。選挙後、ショナ人の圧倒的な支持を背景にムガベは1980年3月4日初代首相に就任した。政権獲得直後のムガベはスミス元首相ら白人旧政権指導者に対し努めて寛容な態度で臨んだ。白人社会との融和政策は「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛され、1988年には第2回アフリカ賞を授与された。当初は白人の協力も得て順調に経済運営を行い、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、「ジンバブエの奇跡」として絶賛された。 1987年12月31日には大統領に就任。1994年にはイギリスのジョン・メージャー政権下でGCBを授与された。これらの功績により、2015年に中華人民共和国から孔子平和賞が贈られた(後に受賞を固辞)。
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首相・大統領として
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「リスト・リュティ」の記事における「首相・大統領として」の解説
1939年11月30日、ソ連軍が侵攻して冬戦争が始まった日、連立与党を構成していた社会民主党党首のベイノ・タンネルから退陣を要求されて、アイモ・カヤンデル政権は12月1日に総辞職した。タンネルはみずから外相につくとともに、フィンランド銀行総裁のリュティに首相就任を要請して、リュティはこれを受けいれた。これ以降、リュティが退陣する1944年まで、フィンランドは、タンネル、リュティ、マンネルハイムの三頭体制が続いた。 1940年3月12日、リュティはパーシキヴィ(当時無任所相)らとモスクワを訪問して和平協定(モスクワ講和条約)に調印。冬戦争は終結したものの、条約は第2の大都市であるヴィープリの割譲などフィンランドにとって非常に不利な内容であり、ソ連との緊張関係は続いた。 そのため、1940年8月、フィンランドはドイツと協定を結び、領土内にドイツ軍の駐留を認めた。1941年6月22日にドイツがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦が始まると、当初は中立を表明したが、フィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ空軍に対し、ソ連がフィンランドへの報復空爆を行ったため、6月25日にはソ連に対して宣戦布告し、継続戦争(第2次ソ・芬戦争)が始まった。この宣戦は、実質的な同盟国であるナチス・ドイツの参戦要請に応えたわけではないことを強調したものだったが、ソ連からの度重なる要請に応じて同年12月にイギリスはフィンランドに宣戦布告した。フィンランド軍は8月末までに、冬戦争で失った旧領を回復した。その後、ドイツ側からのレニングラードやカンダラクシャの攻略についての協力要請には、高い留保条件をつけて応じなかった。1943年にドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北すると、戦争から離脱する方法を探ることになった。1944年6月にソ連軍のカレリア地峡での攻勢が開始されると、航空劣位で有効な対戦車兵器を欠くフィンランド軍は大変な苦戦を強いられ、フィンランドは危急存亡の秋を迎えた。当時、ドイツは、フィンランドがソ連と和平交渉を行っていることを知っており、フィンランドに禁輸をかけていた。ドイツは、フィンランドの緊急支援と禁輸解除の要請について、和平交渉の打ち切りと最後までドイツとともに戦うことの公式な表明が必要だ、と条件をつけた。当時、ドイツの要求を満たすような公式表明を出すことについては、議会の承認が取れる見込みはなかったので、リュティはマンネルハイムらと協議して、大統領声明という形で対ソ戦の継続をヒトラーに約束し、ソ連との和平交渉は打ち切った。そしてドイツからの緊急支援を受けて戦線が安定した8月に辞職し、マンネルハイムが後継大統領についた。マンネルハイムは、リュティらとあらかじめ協議したとおり、和平交渉を再開し、9月に、フィンランドは、モスクワ休戦協定で、ソ連と講和した。
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