青山中央
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:57 UTC 版)
かつて、開運橋以北の地域は青山奥と呼ばれていた。そこから1919年(大正8年)に一番川以北、大袋以南が「二番川部落」として分離した。1928年(昭和3年)4月には、それまで南の青山部落に含まれていた沼の沢までが青山奥となる。1941年(昭和16年)5月に町内会部落会の規定を一部改正したとき、「青山中央」という名前が部落会につけられた。 地区の開拓は1894年(明治27年)、野村五右衛門が富山県から家族や小作人を伴って入植したことに始まる。当時の青山奥はうっそうとした森林地帯であり、当別に通じる道路がなかったため、生活必需品の買い出しには当別川に沿って下りながら40回以上も渡渉を繰り返さなくてはいけなかったという。翌1895年(明治28年)春、野村は堅雪の時期を選んで青山奥から知来乙までの道路測量を行い、雪が融けてから仮道を切り開いた。青山奥から当別まで出向くよりは、この樺戸仮道を使って月形に向かったほうが、距離が近かったのである。 1907年(明治34年)、月形村と厚田村を結ぶ仮定県道岩厚線が青山奥を通過して開削されることになり、後に開運橋が架けられるところに官設の渡船場ができた。その初代取扱人には、野村五右衛門が任命された。また同年11月には、青山奥駅逓所が開設されている。1910年(明治37年)に浜益港線が大袋まで開通すると、多数の人々が入地するようになり、開拓を加速させた。 農作物は青山部落と同様であり、まずは自家食糧の確保のため麦類・豆類・イナキビ・トウモロコシ・ソバ・馬鈴薯・カボチャなどが作られた。1897年(明治30年)ころからは換金作物としてアサが広まり、「青山奥の大麻の青はぎ」として有名になったが、この産業は大正時代中ごろに終わった。その後に作られるようになった青エンドウや小豆などの豆類は、第一次世界大戦の影響で価格が高騰し、遠く札幌や小樽から仲買人が札束を手にして殺到する事態となり、農家は笑いが止まらなかったという。しかし終戦とともに不況が訪れたことで、豆時代も終焉を迎えた。 農民たちの目は水田経営に向けられるようになり、用水路の開設が相次いで、1921年(大正10年)ころには平坦部農地の大部分が水田となった。水田経営が確立すると農家経済も安定するようになり、それまで激しかった住民の転出も落ち着きを見せた。 また青山奥は林産に恵まれた土地であり、1925年(大正14年)に王子製紙との間に製紙原料材供給の長期契約が結ばれ、造材作業は冬季における農民たちの現金収入の手段となった。 1926年(大正15年)9月28日に青山奥尋常小学校の校舎増築落成式が挙行された際、石狩支庁長や当別村長などの要人が参列していたが、ちょうどそのときに青山奥渡船場で住民女性2名が乗った船が転覆したという知らせが届き、かろうじて救助が間に合ったということがあった。水難事故を目の当たりにした要人たちは架橋の必要性を認識し、これが契機となって1929年(昭和4年)に開運橋が架けられた。 太平洋戦争終結後、青山中央以北は緊急開拓の地として取り上げられ、多くの入植者が送り込まれることとなった。そこで当別町は奥地開発の利とするために簡易軌道の敷設を目標として掲げ、1950年(昭和25年)7月11日には当別から青山中央までの営業が運行開始した。さらに1952年(昭和27年)には大袋までの全線が開通したが、当別川沿いを走る路線のため水害が相次ぎ、復旧費用の増加からこの当別町営軌道は1956年(昭和31年)3月31日をもって終了した。 その後、交通の主体はバスへと移行し、青山中央には郵便局や町役場出張所、診療所などもできて利便性が高まった。だが、1954年(昭和29年)に964人を数えた人口はやがて徐々に減っていき、1964年(昭和39年)に763人、1974年(昭和49年)に491人、1984年(昭和59年)に292人、1999年(平成11年)に102人となる。そして当別ダム建設に伴う農家移転が進み、2000年(平成12年)には青山中央自治会が解散となった。
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