近隣地区との関係
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「天ヶ須賀 (四日市市)」の記事における「近隣地区との関係」の解説
隣の三重郡川越町の高松地区(旧高松村)とは明治時代に天ヶ須賀村(北部地域)北町と島崎町の田地を巡っての土地争いがあり、高松村民を小作人として使用した際に、田地の返還問題と農業用水の所有問題があり、伊勢電鉄川越駅が廃止された川越町の豊田地区(旧豊田村)とも川越富洲原駅となった駅名改称問題があり、豊田地区の出身者が戦後の1945年(昭和20年)に川越町に移転した富洲原駅を1983年(昭和58年)から「川越町駅」に改称するように川越町議会に求めた名称問題があった。 平田紡績の創業者である初代平田佐次郎の力で製網関係や漁業などの経済関係が強かった富田一色村と町村合併をして三重郡「富洲原村」となった。富洲原の名の由来は、富田一色から→富(トミ)+天ヶ須賀から→須・洲(ス)+松原から→原(ハラ)富+須+原=富須原から→富+洲+原=富洲原(トミスハラ)である。 富須原から⇒富洲原になったのは、葦が多く生えている浜や沼が多かったと云う明治時代の富洲原地域の様子や風景を後世に伝えるために須が洲に変換した。富田一色地区・天ヶ須賀地区・松原地区は、江戸時代より富田を中心とした、朝明郡の富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村の6ヵ村)として富田地区と親密な関係があった。新しく誕生した富洲原村は、富田と関連つけて、頭文字に富の文字をもってきた。 並び順は次のように言われている。1番目はもちろん人口も多く経済力も強い富田一色であった。 2番目に富田一色から移住した家が多くて富田一色と共に富田地区(東富田・西富田・茂福)との関係が強くて、富田一色地区と一番仲が良い松原地区にしたかったが、最下位扱いとなり天ヵ須賀地区(旧天ヶ須賀村)だけ仲間はずれになるのを恐れたこと。また、平田紡績などの漁業や水産業などの経済関係を重視したことで2番目に天ヵ須賀地区となった。 3番目がその結果として松原地区となった。 富洲原は人口の過半数が富田一色だったことで、政治は富田一色出身者が実権を握っていた。 富洲原地区の3地区の並び順は、天ヶ須賀が新しい団地が造成された事によって3地区で一番人口が多い(4513人で富洲原地区全体の約4割台の人口)地区となった事や、富田一色地区の人口が2000人となり、富洲原地区で一番人口が少ない富洲原地区の人口(9000人〜10000人)の約2割(20%)と急減した事や、富洲原地区の事情を知らない四日市市の方針で富洲原地区市民センターの所属を天ヶ須賀地区の富洲園自治会の一部にするなど、最近では四日市市立富洲原中学校で使用する表記や一部の表記の並び順は以下である。 天ヶ須賀地区 富田一色地区 松原地区とする場合がある。 富洲原小学校での表記や三重郡富洲原町時代の並び順の表記は以下である。 富田一色地区 天ヶ須賀地区 松原地区の順番であった。(人口や政治力も同様であった)。 富洲原地区は、富田一色地区は純漁村。天ヵ須賀地区は半農半漁。松原村は純農村であった。富田一色地区は漁村であり、同じ漁村である東富田村の富田浜地域とは兄弟関係であり、富田一色は富田六郷の富田(東富田村・西富田村)から独立した分家や支店であったので、富田地区との間で兄弟喧嘩や友好関係や親子関係がある。富田一色を起点とする八風街道開通した事、富田一色から東富田間の塩役運河が整備された事、伊勢湾から日本各地に行く海運業が発達した事、水産業の発達で江戸時代から明治時代の期間内に富田一色の人口が急増して、富田一色は富洲原村を形成して天ヶ須賀や松原を指導する立場となった。富田から独立するために富洲原地区の3地区中の割合で人口の過半数がいる富洲原地区の政治と経済の中心地区であった富田一色地区がおまけとして天ヶ須賀村と松原村を吸収合併した。 天ヶ須賀地区は江戸時代から半農半漁の村で富田一色地区とは平田佐次郎が操業した平田紡績(製網産業)や繊維産業や水産業など塩役運河の河口の富洲原港沿いの位置で経済関係が強い。川越町の高松村・豊田村とは農地や農業用水を巡る争いから天ヶ須賀村は富田一色村の政治的な支援が必要であったので川越村ではなくて富田一色との町村合併を選択した。 松原地区は奈良時代の聖武天皇社由来の旧家の田村家など富洲原地区では最古の村であり、富田一色と天ヶ須賀は古代期から中世期の時代の古文書の記述では伊勢湾の海岸の浜洲であり村落が形成されていなかったが、富田一色村と天ヶ須賀村は明治時代の初期に學校が創設されるまで発達して、松原地区には独自の学校がなくて明治時代までは人口が少ない農地が広がる農村であった。富田一色から松原地区へ流入した富田一色の分家など富田一色系の移住者の急増と富州原町や平町の都市化の進行で東洋町・西元町・緑町・宮町・平町が創設されて新規住民が流入して人口が急増して、日本近代史のみでは富洲原で一番新しい歴史がない地区である。富田一色から移住した分家が多くて、近鉄富田駅を利用する富田文化圏は富田一色・松原連合であり、川越富洲原駅を利用する天ヶ須賀地区は天ヶ須賀独立圏であり、天ヶ須賀だけ仲間外れの独立した村であった。 富田一色出身の伊藤平治郎が松原地区に東洋紡績(東洋紡績富田工場)を誘致して、富田一色本町の平田家が天ヶ須賀本町に平田紡績を建設して天ヶ須賀と松原は繊維産業が発達した共通点と松原地区には東洋町商店街と西元町商店街があり、天ヶ須賀地区は住吉町風俗街と富田一色出身者が川越町豊田地区に天神町商店街を開発した共通点がある。天ヶ須賀は経済関係が強い富田一色地区の指導は受けるが、松原地区の天ヶ須賀に対する指導は嫌がり、戦後に富田一色地区の人口が減少して富田一色が少数となり、松原地区と天ヶ須賀のみのアンバランスとなった富洲原は松原地区と天ヶ須賀地区はあくまでも間接的な友好関係であり富洲原地区のまとまりが悪くなった。また富洲原地区は四日市市西部への移住者が多くて、四日市岡田家の富洲原へのスーパー進出や政治的な問題や四日市ぜんそくの公害問題など経済問題で四日市市南部の塩浜地区・中部地区・日永地区などとも対立関係である。
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