近隣国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:19 UTC 版)
838年、ルーシ・カガン国がビザンティン帝国に使節を派遣したことがサンベルタン年代記に記録されているが、使節団の目的については歴史家の間で意見が分かれている。アレクセイ・シャハマトフ(英語版)は、使節団はビザンティンとの間に友好親善関係を確立することと、西ヨーロッパからスウェーデンまでの道を拓くことを目的としていたと主張した。コンスタンティン・ザッカーマンは、ルーシの使節団は830年代のパフラゴニア(英語版) 遠征の後、和平条約を締結するための交渉をしようとしていたと仮定した。ジョージ・ベルナツキーは833年にサルケルに砦が建設されたことと使節団の使命に関連性があると指摘した。なおこの使節団について、ビザンティン側の資料には記録が無い。また、860年にコンスタンティノポリス総主教フォティオス1世は、ルーシについて「未知の人々」と書き残している。 ベルナツキーの説によると、ハザールとビザンティンは、主にルーシの襲撃から国を守ることを目的として、ドン川とヴォルガ川の間の陸路輸送の要衝にサルケル砦を建設したという。しかしながら、他の研究者はサルケル砦はマジャル人やその他の遊牧民に対する防衛と監視を目的として建設されたもので、ルーシに対してではないとしている。ウクライナの歴史家ミハイロ・フルシェフスキーは、現存する資料からはこの点について判断することはできないと述べている。11世紀後半のギリシャ人歴史家ヨハネス・スキュリツェスは、サルケル砦が「ペチェネグに対する堅固な防壁」であったと主張しているが、砦建設の本来の目的については言及していない。 860年6月、ルーシは200隻の船団をもってコンスタンティノープルを包囲(en)した。このときビザンティンの陸軍と海軍は首都から遠く離れた場所にいたため、ルーシの攻撃を防ぐ手立てが無かった。ルーシがビザンティン軍不在のタイミングを見計らって襲撃してきたことは、838年の使節派遣以来、ルーシが商業面や他のあらゆる面で関係を構築し、帝国の内情に通じていたことを物語っている。ルーシは同年8月4日に突如引き揚げるまでの間、コンスタンティノープル市街地を徹底的に破壊しつくした。 なお、ルーシは初めハザールと大規模な交易を行っていた。イブン・フルダーズベは著書『諸道と諸国の書』(en)の中で「彼らはスラヴの川(ドン川)からハザールの本営ハムリジ(en)に現れた。その場所は、後のハザールの支配者がルーシから十分の一税を徴集する場所であった」と記している。また、アラブの資料から推論し、ルーシ・カガン国の政治的文化はハザールとの接触の影響を大いに受けていたとする論評者もいる。しかし、10世紀初めにリューリク朝が興ると、ルーシとハザールの関係は悪化した(en)。
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