近隣及び西側諸国との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:24 UTC 版)
「イディ・アミン」の記事における「近隣及び西側諸国との対立」の解説
この様な政策を西側諸国から批判され、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し、1973年にはアメリカ合衆国連邦政府も、アミンと距離を置くこととなった。 アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在のリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーと接近し、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった。1975年からはアフリカ統一機構議長を務めるものの、翌1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗して国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となった。 当時冷戦下で西側諸国と対峙していたソビエト連邦はウガンダ最大の武器供給国であったが、そのソ連に対しても挑戦的な態度をとることもあり、アンゴラ内戦をめぐっては一時的に外交関係が断絶したこともあった。 ザイールの第一次シャバ紛争(英語版)では「私は共産主義者ではなく、東にも西にも支配されていない」と述べてウガンダ軍の派兵や軍事物質の提供などアミンと親交のあったモブツへの支援の用意があることを表明してソ連と東ドイツといった東側諸国に支持されたコンゴ解放民族戦線と敵対した。東ドイツの情報機関はウガンダの秘密警察の創設でアミンに協力した形跡のもみ消しを図った。 1978年に、オボテを保護していた隣国タンザニアのジュリウス・ニエレレと対立していたことからタンザニアに侵攻するも失敗し、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。リビアとPLOはウガンダを支援したが、ソ連にとってアミンは手に余る存在であったためにソ連はタンザニアに反撃を受けるウガンダを支援しなかった。
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